第五十一章 伊賀、最後の戦い
伊勢を制してから、三日が過ぎた。
俺は本陣で地図を見ていた。
伊賀。
信長が逃れた山深い土地。
忍びの国として知られる、険しい山地だ。
半蔵が報告を持ってきた。
「信長公の動向を報告します」
「聞かせてくれ」
「伊賀の山中に本陣を構えています。兵力は残存四万三千と見ます。伊勢での消耗と、後方への兵力分散で大きく減っています」
「四万三千か」
「はい。明智殿の現在兵力は四万九千です。初めて、明智殿の兵力が信長公を上回りました」
俺は《GAME》の〔データ〕を確認した。
【織田信長〔不死〕〔第六天魔王〕伊賀 兵力四万三千】
【明智軍 兵力四万九千】
初めて、数が逆転した。
四年以上かかった。
しかし、ついに逆転した。
「行く」と俺は言った。
誰も驚かなかった。
全員が、この日が来ることを知っていた。
軍議を開いた。
「伊賀に向かう。信長様との最後の戦いだ」
全員が静かに頷いた。
「今回は、俺が前に出る」
利三が目を丸くした。「十兵衛様が前に出るのですか」
「そうだ」
「しかし」
「聞いてくれ」俺は全員を見た。「信長様との最後の戦いを、後ろから眺めているわけにはいかない。俺が本能寺で信長様を討った。その俺が、最後は正面から向かわなければならない」
信玄が静かに言った。
「分かった。しかし、明智殿一人で前には出させない。儂が隣にいる」
「俺も」と忠勝が言った。
「俺も」と幸村が言った。
「俺も」と政宗が言った。
全員が言った。
俺は全員を見た。
「ありがとう」と俺は言った。「みんなで行く」
翌朝、四万九千が伊勢を出発した。
伊賀に向かって。
信長に向かって。
伊賀の山道は、険しかった。
半蔵の忍びが道を開いた。
地形を知り尽くした半蔵の案内が、四万九千を伊賀の奥深くに導いた。
二日目。
信長の斥候と最初の接触があった。
小競り合いが起きた。しかしすぐに引いた。
「信長様が待っている」と俺は感じた。
三日目の朝。
伊賀の盆地に出た。
そこに、信長の本陣があった。
四万三千の兵が、盆地を守るように展開していた。
中央に、信長の旗が立っていた。
永楽通宝の旗が、風に揺れている。
俺はその光景を、馬上から見た。
長かった旅の、終わりが見えた。
京から逃げ出したあの夜から、ここまで来た。
「信長様」と俺は心の中で言った。「来ました」
戦が始まった。
四万九千対四万三千。
初めて、数で上回る戦いだ。
しかし、信長の〔第六天魔王〕は健在だ。
数では勝っても、決して楽な戦いではない。
信玄が〔風林火山〕を展開した。
忠勝が中央に突進した。
幸村が右翼から動いた。
政宗が左翼を担った。
そして、俺が中央の少し後ろで全体を指揮しながら、前に進んだ。
信長の本軍が動いた。〔第六天魔王〕が全展開した。
整然とした陣形。速い展開。一人一人が精鋭だ。
四万三千が、四万九千と真正面からぶつかった。
激しかった。
伊賀の盆地が、戦場になった。
忠勝が中央を突いた。しかし、信長の精鋭が押し返した。
幸村が右翼を崩しかけた。しかし、信長が対応した。
政宗が左翼を押した。しかし、崩れなかった。
俺は《GAME》の〔マップ〕と〔データ〕で全体を確認しながら、《欺瞞》を使った。
「信長の西で秀吉が動いている」という情報を流した。
前回と同じ手だ。
しかし、信長は動じなかった。
「もう通じない」と俺は分かった。「信長様は学習している」
消耗戦になった。
時間が経つにつれて、双方の兵力が削れていく。
四万九千が、四万を切った。
四万三千が、三万五千になった。
そのとき、信長が動いた。
本陣から、前線に出てきた。
自ら馬を駆って、中央に向かってきた。〔第六天魔王〕が最大展開した。
信長が、忠勝と正面からぶつかった。
轟音のような激突が起きた。
忠勝が押された。
幸村が横から入った。
信玄が全軍を押し込んだ。
しかし、信長は崩れなかった。
俺は決断した。「前に出る」
利三が「なりません」と言いかけた。
「利三」と俺は言った。「ここは俺が行かなければならない」
利三が目を閉じた。そして深く頷いた。
俺は馬を進めた。
中央に向かった。
信長のマーカーが、《GAME》の〔マップ〕上で赤く輝いている。
俺のマーカーが、信長に近づいていく。
信長が俺を見た。
戦場の中で、目が合った。
信長が、少し止まった。
俺も止まった。
忠勝が信長の横から圧力をかけていた。
幸村が信長の後方を崩し始めていた。
信玄が全軍を押し込んでいた。
信長の周囲が、少しずつ、確実に狭まっていた。
一時間後。
信長の残存兵力が、一万を切った。
包囲が完成した。
信長が、中央で立っていた。
一人で、立っていた。
俺は馬を降りた。
信長の前まで、歩いて近づいた。
忠勝と幸村と信玄が、俺の後ろに立った。
信長が、俺を見た。
長い沈黙だった。
戦場の喧騒が、遠くなった気がした。
風が吹いた。
伊賀の山から、春の風が吹いた。
信長が静かに言った。
「やるな、キンカン」
俺は固まった。
キンカン。
信長様が、俺を呼んでいた古い呼び名だ。
頭が丸いから、金柑頭。
その呼び名で呼ばれたのは、いつ以来か。
「本能寺では」信長が続けた。「首をやりたくなかった」
俺は黙って聞いた。
「しかし」信長が静かに言った。「今のお前なら、俺の首をやれる」
信長が俺を見た。その目が、変わっていた。大将の目ではなかった。ただの、人間の目だった。疲れた目だった。
しかし、満足そうな目でもあった。
「信長様」と俺は言った。声が出た。震えていなかった。「まだ、戦えます。降伏してください」
「降伏か」信長が短く笑った。「儂が降伏するとは思えんか」
「思えません」と俺は正直に言った。「しかし、言わなければならない」
「そうか」信長が静かに言った。「光秀、お前は最後まで変わらんな」
信長が空を見た。
伊賀の青い空が広がっていた。
「天下は、どうなる」と信長が言った。
「分かりません」俺は答えた。「しかし、東北の民は守ります。それだけは、必ず」
「東北か」信長が静かに笑った。「儂には理解できん選択だった。しかし」
「しかし」
「今は、少し分かる気がする」
信長が刀を手に取った。
俺は一歩進んだ。
「信長様」
「光秀」信長が俺を見た。「お前が倒したかったのは儂ではなかったのだろう」
「……はい」
「儂への恐怖だったのだろう」
俺は答えられなかった。
しかし、頷いた。
「そうか」信長が静かに言った。「正直な男だ。最後まで正直だ」
信長が膝をついた。
自ら、膝をついた。
俺はそれを止められなかった。
止める言葉が、出なかった。
「光秀」信長が最後に言った。「天下を狙え。お前ならできる」
「要りません」と俺は言った。「東北の民がいれば、それで十分です」
信長が短く笑った。「やはり、変わらんな」
信長が刀を持った手が、動いた。
俺は目を閉じなかった。
最後まで、信長様を見ていた。
静かだった。
鳥の声が聞こえた。
伊賀の山から、鳥の声が聞こえた。
信長が、倒れた。
俺は動けなかった。
長い間、動けなかった。
信玄が隣に来た。
忠勝が隣に来た。
幸村が隣に来た。
誰も、何も言わなかった。
半蔵が静かに報告した。
「織田信長公、切腹されました」
織田氏、滅亡。《GAME》の〔マップ〕を確認した。
織田信長のマーカーが、消えていた。
伊賀の地図から、信長の色が消えていた。
俺は信長が倒れた場所を見た。
戦国最大の革命児が、ここで逝った。
本能寺で討ったとき、俺は信長の最期を見ていない。
しかし、今日、俺は信長の最期を見た。
正面から、真っ直ぐに見た。
俺の頬に、何かが伝った。
俺は気づかなかった。
利三が静かに言った。「十兵衛様、泣いておられます」
俺は自分の頬に触れた。濡れていた。一雫の涙が、頬を伝っていた。
俺は泣いていなかったと思っていた。
泣くつもりがなかった。
しかし、体が、正直だった。
信長様。
俺が討った人。
俺が逃げ続けた人。
俺が恐れた人。
俺が最後に向かい合った人。
「キンカン、か」と俺は呟いた。誰にも聞こえない声で。「信長様に、最後にそう呼んでもらえるとは思いませんでした」
風が吹いた。
伊賀の春の風が、俺の頬を撫でた。
涙が、乾いていった。
信玄が静かに言った。「信長は立派だった」
「ああ」と俺は言った。
「天下人になれる男が、最後に膝をついた」
「ああ」
「お主に負けたから、膝をついた。それは誇りにしていい」
忠勝が静かに言った。「主君が信長に勝った」
「勝ったのはみんなだ」俺は言った。
「違う」忠勝が静かに言った。「最後に前に出たのは、明智殿だ。それが全てだ」
幸村が静かに言った。
「信濃で俺は明智殿に負けた。あの負けから始まって、ここまで来た。長かった」
「ああ」と俺は言った。「長かった」
「終わったのか」と幸村が聞いた。
「まだ秀吉がいる」俺は答えた。「しかし、今日は、終わった部分がある」
「信長公との戦いが、終わった」
「ああ」
政宗が静かに来た。「明智殿」
「何だ」
「泣いていたな」
「ああ」俺は正直に言った。「泣いた」
「それでいい」政宗が短く言った。「信長公は、泣かれるだけの人だった」
利三が静かに言った。「十兵衛様、信長公を弔いましょう」
「ああ」俺は頷いた。「立派に弔う。信長様にふさわしい弔いをする」
夜、俺は信長が最期を迎えた場所に戻った。
線香を焚いた。
手を合わせた。
「信長様」と俺は言った。「本能寺の件は、ずっと謝罪してきました。最後に言葉を交わせて、よかった。キンカンと呼んでくれて、ありがとうございました」
《GAME》の〔マップ〕を開いた。織田信長のマーカーが、消えたままだ。信長の色が、地図から消えていた。
しかし、信長が作った尾張、美濃、伊勢。
その土地の民が、今も生きている。
「守ります」と俺は言った。「信長様が作った土地の民も、俺が守ります」
翌朝、全員に告げた。
「信長様を弔う。三日間、戦を止める」
誰も反論しなかった。
全員が、深く頷いた。
三日間、俺は信長の弔いをした。
線香が絶えない三日間だった。
多くの兵が、手を合わせに来た。
信長に仕えていた者も、明智の兵も、共に手を合わせた。
三日目の夜。
俺は一人で、信長の墓の前に座った。
懐から「死ね」の文を取り出した。
二文字を見た。
「信長様」と俺は言った。「俺は死にませんでした。東北の民が、まだ待っています。行ってきます」
文を、信長の墓の前に置いた。
そっと、置いた。
風が吹いた。
文が、少し揺れた。
まるで信長が答えたような気がした。
俺は立ち上がった。
《GAME》の〔マップ〕を開いた。秀吉のマーカーが、畿内で動いている。
まだ終わっていない。しかし、今日は、一つの戦いが終わった。
東北の星が、遠い北で輝いていた。
民が待っている土地が、そこにある。
俺は北を向いた。
「行こう」と俺は言った。
全員が、後ろにいた。




