第四十章 謙信、動く
尾張での回復が順調に進んでいた。
兵力が四万五千まで戻ってきた。
尾張の民が少しずつ明智に慣れ始めていた。
市に人が戻り、田畑が整い始めていた。
表向きは、順調だった。
その朝、半蔵が来た。
走っていた。
この男が走るのを、俺は初めて見た。
「半蔵」と俺は立ち上がった。
半蔵が俺の前で止まった。息が、わずかに乱れていた。
「申し上げます」
「言ってくれ」
「上杉謙信公から、手切りの文が届きました」
俺は動けなかった。
手切り。
同盟の破棄。
謙信から。
「文を見せてくれ」
半蔵が文を渡した。
俺は開いた。
謙信の文は、短かった。
「明智光秀は謀反人なり。謀反人と同盟を結びし義、今ここに断つ。上杉謙信」
俺は文を見た。
もう一度、見た。
謙信の言葉は、明確だった。
謀反人。
俺が信長を討ったことへの、義的な断罪だ。
信長様が謙信に伝えたのか。
それとも謙信が自分で判断したのか。
どちらでもいい。
結果は同じだ。
半蔵が続けた。
「さらに続報があります」
俺は半蔵を見た。
「上杉謙信、羽前に侵攻を開始しました」
俺の頭が、真っ白になった。
羽前。
東北の入り口だ。
俺たちが最初に腰を落ち着けた土地だ。
昌幸がいる。
しかし、謙信の兵力は二万を超えている。
「昌幸殿は」と俺は聞いた。
「現在、羽前の城に籠もって防衛しています。しかし、謙信公の攻勢が激しく、厳しい状況です」
「他の東北の城は」
「羽後、陸奥は今のところ安全です。しかし羽前が落ちれば、東北全体に波及します」
俺は走り出した。
執務室に入って、地図を広げた。
利三が飛んできた。
「十兵衛様、謙信公の件は」
「分かっている」
家康が入ってきた。「明智殿、状況は把握しました」
「どうする」と俺は聞いた。
「戻るしかありません」家康が即座に言った。「東北が危うい。尾張を守りながら東北を守ることは、今の兵力では不可能です」
「しかし、尾張を空にすれば」
「信長公が戻ってくる可能性があります」家康が続けた。「しかし、東北を失えば、全てを失います。優先順位は東北です」
信玄が入ってきた。
「謙信が動いたか」信玄が静かに言った。
「動いた。羽前を攻めている」
「やはりか」信玄が続けた。「信長が謙信を動かした。あの男の策だ」
「どういうことだ」
「信長は尾張を捨てて畿内に戻った。その理由の一つは、謙信を動かすためかもしれない」信玄が静かに言った。「尾張を取られた明智が東に向かわざるを得ない状況を作る。そのために謙信を利用した」
俺は地図を見た。
また、信長の罠か。
信長様は、俺が尾張を取ったら東に引き戻されることを計算していたのか。〔第六天魔王〕の「常識を超えた判断力」が、また発動している。
俺は拳を握りしめた「動く」と俺は言った。
「どこに」と家康が聞いた。
「信濃だ。まず信濃に全軍を集める」俺は地図を指さした。「信濃から越後を攻める。謙信の本拠地を突けば、謙信は羽前から引き返さざるを得ない」
「越後攻略か」家康が静かに言った。「謙信公は越後の防衛も固めているはずです。しかし、羽前を攻めている今、越後が薄くなっている可能性があります」
「それに賭ける」俺は言った。「昌幸が羽前で時間を稼いでくれている間に、越後を突く」
「尾張はどうする」と幸村が聞いた。
「信玄殿に一万を持って守ってもらう」
信玄が俺を見た。「一万で尾張を守れるか」
「一万でも信玄殿がいれば違う。そして信長様は今、畿内で秀吉と戦っている。すぐに戻ってくる余裕はないはずだ」
「しかし」
「危険性は分かっている」俺は信玄を見た。「信玄殿にしか頼めない。尾張を頼む」
信玄が少し間を置いた。
「…分かった。任せろ」信玄が静かに言った。「しかし、明智殿、越後を取ったら必ず戻ってきてくれ」
「約束する」
昌幸への急報を飛ばした。
「謙信が動いた。羽前を守り続けてくれ。全力で時間を稼いでくれ。俺が越後を突く」
昌幸からの返事が来た。
「御意。羽前は死守します。ただし急いでください。謙信公は本物です」
最後の一文が刺さった。
昌幸が「急いでください」と言った。
この老狐が、焦りを見せている。
謙信の攻勢が、それだけ激しいということだ。
出発の準備が始まった。
四万五千から信玄の一万を除いた、三万五千が信濃に向けて動く。
尾張から信濃まで、二日の行程だ。
俺は出発前に信玄と向かい合った。
「信玄殿、一万で尾張を守るのは無理があるかもしれない」と俺は正直に言った。
「無理なことをやるのが戦だ」信玄が静かに言った。「しかし、信長が畿内で動けない間は、尾張は安全だ。俺が守る」
「もし信長様が戻ってきたら」
「逃げる」信玄が短く言った。「儂は死なない。一万が削られても、儂は生き残る。逃げながら時間を稼ぐ」
「それでいい」俺は言った。「死ぬな、信玄殿」
「死なない」信玄が笑った。「東北の雪を見るまでは、死ねない」
三万五千が動き始めた。
尾張を出て、東に向かう。
信濃へ。
そして越後へ。
行軍しながら、俺はGAMEの〔マップ〕を確認し続けた。
羽前で、昌幸のマーカーが光っている。
謙信のマーカーが、羽前に向かって動いている。
二つのマーカーが近づいていく。
「急げ」と俺は心の中で呟いた。
二日目の昼、信濃に入った。
政宗が出迎えた。
「来たか」と政宗が静かに言った。
「謙信の件は聞いているか」
「昨日から把握している。羽前の状況も」政宗が続けた。「昌幸殿は踏みとどまっている。しかし厳しい」
「越後を突く」と俺は言った。「お前も来てくれ」
「当然だ」政宗が即座に言った。「信濃は誰かに守らせる。俺は前に出る」
「頼む」
信濃に三万五千の兵が集結した。
軍議を開いた。
「越後攻略を目指す」と俺は言った。「謙信が羽前にいる今、越後の守りは薄くなっているはずだ。信濃から越後に入り、謙信の本拠地を突く。謙信が羽前から引き返せば、昌幸の危機が去る」
「謙信公の越後の守備兵はどのくらいか」と忠勝が聞いた。
「半蔵、分かるか」
半蔵が答えた。「越後に残存している兵力は、八千から一万と見ます。謙信公が羽前に二万以上を連れて行ったため、越後が手薄になっています」
「三万五千対一万なら」と幸村が言った。
「数の上では圧倒できる」
「しかし、越後の地形は険しい」家康が静かに言った。「謙信公の地元です。地の利がある。数で優っていても、油断はできません」
「分かっている」俺は言った。「だからこそ急ぐ。謙信が気づいて越後に戻る前に、決着をつける」
出発前、政宗が俺に近づいた。「明智殿」
「何だ」
「謙信公を倒した後、どうするつもりだ」と政宗が聞いた。
「降伏させる。できれば話し合いたい」と俺は答えた。
「謙信公は義の人だ。降伏しないかもしれない」
「知っている」俺は静かに言った。「しかし、謙信は民を大切にする人でもある。民のために止まれる人だと信じている」
政宗が少し間を置いた。「明智殿はなぜそこまで信じられる」
「謙信が義の人だから、俺を謀反人と断じた。その判断は正しい。俺は確かに謀反人だ。しかし義の人なら、民を守るための戦いも、義として認めてくれる可能性がある。それを信じている」
政宗が静かに頷いた。「……明智殿らしい考え方だ」
翌朝、三万五千が信濃を出発した。
北へ。
越後へ。
上杉謙信の本拠地へ。
行軍しながら、半蔵から報告が来た。
「昌幸殿より急報です」
俺は馬を止めた。
「読んでくれ」
「羽前の第一防衛線、突破されました。第二防衛線に後退しています。謙信公の攻勢が想像以上です。しかし、まだ守れます。急いでください、十兵衛様」
俺の胸が、締め付けられた。
昌幸が「十兵衛様」と書いた。
この男が俺を名前で呼ぶのは、珍しい。
それだけ、切迫しているということだ。
「急ぐ」と俺は言った。「行軍速度を上げろ」
三万五千の兵が、速度を上げた。
マップを確認した。
昌幸のマーカーが、羽前の城で光っている。
謙信のマーカーが、その周囲を囲んでいる。
越後で、謙信の守備隊のマーカーが薄くなっているのが見えた。
「あと二日」と俺は呟いた。「二日で越後に入れる。昌幸、持ちこたえてくれ」
夜営の夜。
忠勝が来た。
「昌幸殿は大丈夫か」と忠勝が聞いた。
「持ちこたえていると思う」と俺は答えた。
「謙信公の強さは」
「本物だ。義の人は強い」俺は静かに言った。「しかし、昌幸殿も本物だ。守りの天才だ。あの人が守っている間は、簡単には落ちない」
「信じているか」
「信じている」
忠勝が短く頷いた。「俺も信じる」
幸村が来た。「明智殿、一つ言っておく」
「何だ」
「謙信公は強い」幸村が静かに言った。
「俺が今まで戦った中で、最も強い可能性がある。信長公も強い。しかし謙信公の義の力は、別の種類の強さだ」
「どういう意味だ」
「信長公の強さは才能だ。謙信公の強さは信念だ」幸村が続けた。「信念で戦う人間は、最後まで崩れない」
「だから怖いと言いたいか」
「怖い」幸村が静かに言った。「しかし、俺も信念で戦う。明智殿を守るという信念だ。謙信公の義と、俺の義が正面からぶつかる」
俺は幸村を見た。
「ありがとう、幸村」
「礼はいい」幸村が短く言った。「越後で言え」
二日目の夕暮れ。
越後の国境が見えてきた。GAMEの〔マップ〕を確認した。
【越後の守備兵、約九千】
こちら三万五千。数は圧倒的だ。しかし、謙信の地元だ。地の利がある。
そして謙信本人が、いつ気づいて戻ってくるか分からない。
「急ぐ」と俺は言った。「夜明けと同時に動く」
夜。
俺は越後の国境の手前で、北の空を見た。
星が出ていた。越後の空は、東北の空に似ている。広くて、静かで、冷たい。
昌幸が、羽前でまだ戦っている。
信玄が、尾張で一人で守っている。
政宗が、今夜も甲冑を着たまま眠っているだろう。
全員が、それぞれの持ち場で戦っている。
「終わらせる」と俺は呟いた。「謙信を越後に引き返させる。そして、話し合う。俺の言葉を、直接聞いてもらう」
GAMEの〔マップ〕の越後が、夜の中で静かに光っていた。
謙信の本拠地が、目の前にあった。




