第三章 強すぎる男たちの忠誠心問題
信濃に腰を落ち着けて、五日が過ぎた。
兵の傷が癒え、食糧が補充され、陣の形が整ってきた。表面上は順調だ。マップ上でも、周辺の敵の動きに急激な変化はない。半蔵が各地に放った間者たちが、毎日情報を持ち帰ってくる。
越後の上杉。関東の北条。甲斐の武田残党。奥州の伊達。
それぞれの兵力と動向が、少しずつ明らかになっていく。
順調だ。
順調なはずだ。
なのに俺は、夜になるたびにマップの別の数値を眺めて、胃が痛くなっていた。
武将パラメータに、忠誠値という項目がある。
最初に気づいたのは三河から信濃に移動した直後だった。各武将のステータスを確認していたとき、二つの数値が目に飛び込んできた。
【本多忠勝 忠誠58】
【真田幸村 忠誠55】
58と55。
100段階評価で、だ。
俺は画面を閉じた。もう一度開いた。変わらない。
「…………」
比較のために他の武将を確認した。
利三は100。家康は80。半蔵は82。真田昌幸は86。
忠勝と幸村が、ぶっちぎりで低い。
そりゃそうだ、と頭では分かる。忠勝はもともと家康の男だ。命令には従っているが、心の底では主君を変えることに納得していないだろう。
幸村に至っては、降伏の直前まで俺を睨んでいた。《欺瞞》で父親との間を引き裂かれた恨みも、消えてはいないはずだ。
分かってはいる。
分かってはいるのだが。
「裏切られたら死ぬ」
俺は夜の陣幕の中で、一人呟いた。
本多忠勝に寝首を掻かれたら、俺に対抗できる人間はこの陣にいない。真田幸村が突然敵に回ったら、一万の軍勢が崩壊する。この二人は戦力の柱であると同時に、最大のリスクだ。
ゲームなら忠誠値を上げるアイテムを使えばいい。
しかし、今は経済的な理由で無理だ。
翌朝、俺は利三を呼んだ。
「忠勝と幸村の忠誠が低いと思う」
単刀直入に言うと、利三は少し考えてから頷いた。
「薄々、感じておりました」
「どう思う」
「本多殿は武人です」利三が静かに言う。「あの御仁は主君への忠義で生きている。
家康殿が従った以上、表向きは従いましょう。しかし心の芯には、まだ家康殿がいる」
「じゃあ幸村は」
「幸村殿は……」利三が少し言いにくそうにした。「義のために戦う方です。明智様への義を、まだ見出せていないのではないかと」
義か。
俺は天井を見た。
光秀という男は謀反人だ。主君を討った男だ。義という言葉が最も似合わない立場にいる。幸村が忠誠を捧げるには、まず俺がその価値を示さなければならない。
「どうすれば上がる」とは聞かなかった。
自分で考えなければいけない問題だと分かっていたから。
その日の午後、俺は忠勝を呼んだ。
二人きりで話すのは初めてだった。忠勝は相変わらず鎧を着たまま座っている。食事のときも鎧を着ているらしいと半蔵から聞いた。本当かどうか確認する勇気はない。
「忠勝、一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「家康のことを、どう思っている」
忠勝の目が、わずかに動いた。
「……主君です」
「今は俺の配下だが」
「それでも主君です」忠勝は迷わず答えた。「家康様が従うと決めた。ならば俺も従う。それだけのことです」
「不満はないのか」
少しの沈黙。
「明智殿が弱ければ、不満を持つ暇もなく死んでいた」忠勝がまっすぐ俺を見た。「三河で勝った。信濃でも勝った。弱い主君には仕えられない。その点だけは、認めている」
認めている、という言葉の重さを俺は噛みしめた。この男にそう言わせるだけで、相当なことだと分かる。
「ありがとう」と俺は言った。「正直に話してくれて」
忠勝が少し、意外そうな顔をした。礼を言われると思っていなかったのかもしれない。
次に幸村を呼んだ。
幸村は座るなり、俺を見た。目に敵意はない。しかし値踏みする鋭さがある。
「幸村」と俺は言った。「お前に謝りたいことがある」
「信濃での《欺瞞》のことか」
「ああ。父上との間に讒言を流した。あれは卑怯だった」
幸村が黙った。
「勝つために必要だと今でも思っている。でも、お前の誇りを傷つけた。それは事実だ」
長い沈黙だった。
幸村がゆっくりと口を開いた。
「明智殿は、なぜ東北に行く」
「生き残るためだ」
「それだけか」
俺は少し考えた。
「家臣と家族を、死なせたくない。この狂った時代で、みんなが生きられる場所を作りたい。東北にそれができるかどうか分からない。でも他に選択肢がない」
幸村がじっと俺を見ていた。
「天下は要らないのか」
「要らない」即答した。「俺には荷が重すぎる」
また沈黙。
そして幸村が、ふっと息を吐いた。怒りではなく、何か腑に落ちたような息だった。
「……正直な御仁だ」
それだけ言って、幸村は立ち上がった。
マップを確認すると、幸村の忠誠値が60に上がっていた。
たった5。でも確かに、上がっていた。
夜、家康が俺のところに来た。
この男は呼んでいないのに来る。そして呼んでいないのに的確なことを言う。
「忠勝と幸村に話をされましたな」
「見ていたのか」
「見ずとも分かります」家康が静かに座った。「二人とも、少し顔が違った」
「……お前は何をしに来た」
「助言を一つ」家康が俺を見た。「忠勝は戦場で使い続けることで忠誠が育ちます。あの男は強い主君の隣で戦うことで、初めて心を開く」
「幸村は」
「幸村殿は義のために戦える理由が必要です」家康が少し考えた。「民を救う場面を作りなさい。あの方は弱い者のために剣を振るいたい人だ」
俺は家康を眺めた。
「お前、なんで俺を助ける」
家康が薄く笑った。
「明智殿が東北で国を作るなら、私もその国に生きることになる。居心地が悪いのは困ります」
打算だ。でも正直な打算だ。俺はこういう正直さが嫌いじゃない。
「ありがとう」と俺は言った。「参考にする」
その夜遅く、俺は一人でマップを眺めた。
【本多忠勝 忠誠58】
【真田幸村 忠誠60】
まだ低い。まだ不安だ。夜中に寝首を掻かれる夢を見そうだ。実際、昨夜も見た。
でも、ゼロじゃない。
少しずつ、確かに積み上がっている。
俺はマップの北を見た。半蔵が集めた情報が、少しずつ東北の輪郭を描き始めている。越後の上杉、奥州の伊達、南部氏。まだ遠い。まだ霧の中だ。
しかし、進むしかない。
強すぎる男たちを抱えて、不安を抱えて、それでも北へ。
「明日も生き残ろう」
誰にともなく、俺は呟いた。
マップの篝火が、静かに揺れていた。




