第二章 信濃攻め、真田幸村はズルい
三河での死闘から十日が過ぎた。
遠江の仮陣地に戻った俺の軍は、満身創痍だった。死者の数を報告された朝、俺は飯が食えなかった。ゲームのユニットじゃない。一人一人に家族がいる。その重さが、まだ胃の底に残っていた。
それでも立ち止まる時間はない。
マップを見れば、秀吉のマーカーがじわじわと東に向かっている。奴はまだ俺を諦めていないはず。天下の邪魔者として、いずれ必ず追ってくる。猶予は長くて一ヶ月。短ければ二週間だ。
「兵を休ませろ」と俺は命じた。「十日間、全員休め。食わせろ、寝かせろ、傷を治せ」
利三が頷く。「兵糧は三河から調達できます。家康殿が手配してくださいました」
降伏した家康は、意外なほど協力的だった。恨んでいないのか聞いたら、「勝った者に従うのは当然のこと」と涼しい顔で言われた。この男の割り切りの良さは、正直少し怖い。
十日の休養の間、俺は服部半蔵を呼んだ。
初めて仕事を頼む日だ。忍者に何をどこまで頼めるのか、正直まだ掴めていない。半蔵は相変わらず無表情で、俺の前に音もなく座っていた。本当に気配がない。部屋に入ってきた瞬間すら気づかなかった。
「北の信濃、真田昌幸の兵力が知りたい」
俺は単刀直入に言った。「総兵力、陣の配置、主要な将の位置。全部調べてきてくれ」
半蔵は短く答えた。「いつまでに」
「五日で頼む」
「三日でやりましょう」
それだけ言って、半蔵は消えた。
文字通り、消えた。幕の隙間を抜けた瞬間、もうどこにもいない。
俺は思わず呟いた。「……チートじゃないか」
半蔵は約束通り、三日で戻ってきた。
報告は正確だった。精緻だった。陣の配置、兵の動き、食糧の備蓄量まで数字が揃っている。前世のゲームで言えば、敵ユニットの全情報が開示された状態だ。
そして俺は、総兵力の数字を見て目を閉じた。
「一万か」
「ちょうど一万と見ます」と半蔵が答えた。「ただし」
「ただし?」
「真田には、厄介な将がおります」
半蔵がそこで少し間を置いた。この男が間を置くのは珍しい。それだけで嫌な予感がした。
「真田幸村」
その名前を聞いた瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。
真田幸村。前世の記憶の中で、その名前が持つ意味を俺はよく知っている。戦国最強の一人。大坂の陣で徳川家康をあと一歩まで追い詰めた男。そしてこの狂った時代では、〔不死〕マーカーを持って実際に存在している。
マップを確認すると、確かに点灯していた。
【真田幸村〔不死〕武力98】
98……。最高値が100だから……えー本多忠勝が99とほぼ同じ数値だ。
「……笑えない」
俺は天井を仰いだ。
「どうなさいますか」と利三が静かに問う。
俺は深呼吸をした。逃げるわけにはいかない。信濃を抜かなければ、東北への道は開けない。真田を放置して進めば、背後から刺される。
「行くしかない」
そして、俺は、本多忠勝を呼んだ。
本多忠勝はいつも通りだった。
兜を外した素顔は、思ったより若く、思ったより静かな顔をしている。しかし目だけが、常に何かを燃やしていた。
「忠勝」と俺は言った。「一万の兵を持たせる。信濃の真田を頼む」
忠勝は地図も作戦書も見なかった。ただ俺を見た。
「正面から行って良いか」
「……できれば《欺瞞》と組み合わせたい」
「搦め手か」忠勝の口が、わずかに曲がった。不満なのか、それとも仕方ないと思っているのか、判断できない。「分かった。指示に従う」
「ありがとう」と俺は言った。「頼む。本当に頼む」
祈るような気持ちだった。
実際、俺は手を合わせた。忠勝が出陣した後、利三に見られていた。何も言われなかったが、少し哀れむような目をされた気がした。
信濃侵攻が始まった。
序盤は順調だった。
半蔵の情報通りに陣を読み、忠勝が先陣を切って真田の前衛を粉砕していく。やはりこの男は強い。一万の兵の士気が、忠勝一人の存在で別物になる。前世のゲーム用語で言えば、全軍バフがかかっている状態だ。
そして俺は後陣から《欺瞞》を展開した。
内容は今回も二段構えだ。まず「上杉の軍勢が越後から信濃に南下している」という偽情報を流す。上杉謙信は〔不死〕で実在しているから、この情報には十分な信憑性がある。真田の物見が混乱し、北への備えとして兵の一部が引き抜かれた。
マップ上の兵力マーカーが減っていく。一万が、七千になった。
「よし」と俺は呟いた。「このまま!!」
そのとき、マップが赤く染まった。
忠勝の部隊が、止まっていた。
理由はすぐに分かった。
真田幸村が、出てきた。
赤い装束。〔不死〕のマーカーを煌かせながら、幸村は忠勝の正面に立った。マップ上で二つの兵が向かい合っている。どちらも最大値に近い。
伝令が血相を変えて飛んできた。
「申し上げます!本多様の部隊が真田幸村と交戦、激しい消耗が!」
「分かった」と俺は答えた。声が震えないように気をつけた。
マップを見る。忠勝は押されていないが、前進もできていない。幸村が一人で一万の侵攻を止めている。本多忠勝と真田幸村の一騎討ちが、戦場の中央で延々と続いている。
ズルい、と俺は思った。
本当にズルい。強すぎる武将が〔不死〕で存在している。これはもうゲームのバランスが崩壊している。運営に怒鳴り込みたい。しかし運営など存在しないし、存在したとしても俺が死んだら終わりだ。
「《欺瞞》第二弾」
俺は決断した。
「今度は真田の内部に流せ。幸村が裏切り者だという噂を。証拠も何もいらない、ただ流せ」
利三が目を細めた。「……えげつない手でございますな」
「褒め言葉として受け取っておく」
半蔵が音もなく動いた。
効果は三十分後に出た。
幸村の後方、真田本陣に動揺が走った。マップ上で、本陣の将たちのマーカーが揺れている。真田昌幸と幸村の間に、通信が断絶した痕跡がある。
幸村の動きが、一瞬鈍った。
忠勝がそれを見逃すはずがなかった。
怒号のような戦場の声が、遠くから聞こえた。
使者が来たのは、それから二時間後だった。
「真田昌幸様より。……降伏する、と」
俺は息を吐いた。
長い、長い息だった。
本陣に真田昌幸が連れてこられた。老獪という言葉がこれほど似合う男を、俺は見たことがない。六十に近いはずなのに、目が若い。しかも降伏しているのに、どこか余裕がある。
「明智殿」と昌幸は言った。「見事な策でしたな。幸村への讒言とは」
「必要な手だった」
「ええ、ええ。しかしあれは幸村が怒っておりますぞ」昌幸が薄く笑う。「後でよくよくお詫びなさいませ」
嬉しそうに言うな、と俺は思った。
幸村は最後まで納得していない様子で、俺を睨んでいた。〔不死〕マーカーを持つ男に睨まれると、普通に怖い。しかしその目の奥に、純粋な武人の誇りがある。この男は裏切らない。そういう目だ。
「幸村」と俺は正面から言った。「お前は強い。俺じゃ正面から絶対に勝てない。だから汚い手を使った。謝る」
幸村が黙った。
「でも、俺は東北に行く。その道の上に信濃があった。それだけだ」
しばらくの沈黙の後、幸村が短く言った。
「……東北に何がある」
「生き残れる場所が、あると思ってる」
また沈黙。
そして幸村は、ゆっくりと頭を下げた。
全軍が信濃に移った。
遠江を出て、三河を経て、信濃まで来た。マップ上でルートを確認すると、東北まではまだ遠い。しかし確実に、近づいている。
新しい陣で、俺は仲間の顔を見回した。
利三。家康。本多忠勝。服部半蔵。真田昌幸。真田幸村。
どいつもこいつも強すぎる、曲者すぎる、扱いきれる気がしない。
でも確かに、ここにいる。
俺はマップを開いた。北へ。まだ北へ。
「次は越後か、それとも奥州へ直接向かうか……」
呟いた瞬間、幸村が隣に立っていた。
「俺が先陣を切る」
さっきまで睨んでいたのに、もう切り替わっている。武人というのはそういうものか。
「……頼む」と俺は言った。
マップの北に、東北の光が見え始めていた。




