第一章 三河攻め、死闘にも程がある
遠江の仮陣地に篝火が揺れる夜、俺はゲームマップを凝視しながら頭を抱えていた。
北に真田。西に徳川。東に今川義元の〔不死〕マーカー。
どこを見ても詰んでいる。普通に考えれば、だ。
だが俺はゲーマーだ。詰んでいるように見えるマップほど、どこかに抜け穴がある。それがゲームというものだ。俺はマップの細部を、目を細めながら読み込んでいった。
兵力。地形。補給路。各武将のパラメータ。
そして、あるアイコンに目が止まった。
「……忍者」
思わず声に出た。
利三が振り返る。「十兵衛様?」
「忍者が欲しい」
また沈黙。最近、家臣たちが俺の発言に沈黙で返すのが癖になっている。無理もないが。
「いや、聞いてくれ」と俺は続けた。「今の俺たちには何が足りないか分かるか。兵力でも食糧でもない。情報だ。敵の動きを即時で把握できれば、この地図はもっと有利に動かせる」
利三が腕を組んだ。「忍びの者、ということでございますか」
「そうだ。そして、地図に一人、光っている男がいる」
俺は地図の上、三河の一点を指さした。
「服部半蔵。あいつが欲しい」
問題は、服部半蔵が徳川家康の配下にいることだった。
徳川家康。マップ上のパラメータを見るたびに、俺は苦笑いを禁じ得ない。統率、知略、武力。全ての数値がおかしい。しかもこの時代の家康はまだ若い。伸びしろが化け物じみている。
普通に戦えば、勝てない。
だから普通に戦わなければいい。
「奥義を使う」と俺は言った。
光秀。いや、俺が持つもう一つのスキル。《欺瞞》。
ゲームで言えばデバフ技だ。敵陣に偽の情報を流し込み、混乱させ、戦力を分散させ兵力を減らせる。光秀という男は歴史的に見ても調略と謀略に長けていた。その素養が、このスキルとして俺に宿っている。
俺は三日かけて、作戦を練った。
三河侵攻。兵力一万。
出陣の朝、利三が静かに隣に立った。
「勝てますか」
俺は正直に答えた。
「五分五分だ。でも服部半蔵を手に入れなければ、東北には行けない」
利三は短く頷いた。「では行くまでです」
この男はいつも、それだけ言う。それだけで十分だった。
三河の土は固かった。
遠江との国境を越えた瞬間から、俺はマップの緊張感が上がるのを感じた。各所に徳川の物見が立っている。隠れているつもりだろうが、マップには全員の位置が丸見えだ。俺は行軍路を細かく調整しながら、物見を避けつつ進んだ。
そして、侵攻三日目、《欺瞞》を発動した。
内容はシンプルだ。「今川義元が駿河から三河に侵攻する」という偽情報を、三河各地の商人と間者を通じて流した。
今川義元は〔不死〕で実際に存在しているから、この情報には妙なリアリティがある。徳川の将たちが信じるのに、時間はかからなかった。
マップ上で、徳川の兵力マーカーが動いた。
南東に向いていた兵の半数が、今川への備えとして転用されていく。
一万が、五千になった。
「今だ」
俺は全軍に前進を命じた。
しかし、甘かった。
数で勝っているはずの戦場で、俺の軍は押されていた。
理由は一人の男だ。
本多忠勝。
マップのパラメータを見たとき、俺は思わず画面を二度見した。武力の数値が、ぶっ壊れている。ゲームなら運営にクレームを入れるレベルだ。
しかも、強いだけじゃない。動きが読めない。普通の武将なら突撃コースが予測できるのに、この男だけがマップの予測線を外れて動く。
三度、正面突破を試みた。三度とも、忠勝一人に食い止められた。
俺の精鋭部隊が次々と弾き飛ばされていく。
「笑えない……」
思わず呟いた。ゲームなら笑えるバランス崩壊も、現実だと洒落にならない。俺の兵が死んでいる。血が流れている。悲鳴が聞こえる。
「十兵衛様、中央が崩れます!」
伝令が叫んだ。
俺はマップを見た。忠勝を中心に、徳川の残存五千が楔形に食い込んでくる。このまま押し込まれれば、数の優位が消える。
「《欺瞞》の第二段」
俺は決断した。
「今すぐ、徳川の本陣に向けて情報を流せ。家康の首が取れたと。味方に向けて流せ」
利三が眉を上げた。「……味方に、でございますか」
「わざと漏れるように流す。敵に聞かせるんだ」
利三は一瞬考え、すぐに理解した顔になった。「御意」
偽情報が戦場に流れた。
効果は予想以上だった。
本多忠勝が、動きを止めた。本陣の異変を察知した瞬間、あの化け物が初めて振り返った。たった一瞬の停止。しかしそれで十分だった。
「全軍、右翼から回り込め!」
俺は叫んだ。
忠勝が気づいて戻ろうとする。しかし遅い。右翼が崩れ、徳川の陣形が乱れた。
それでも忠勝は三人の将を一人で屠りながら踏みとどまった。本当に笑えない。この男を正面から倒せる人間が、この時代に何人いるというのか。
最終的に、俺の軍も限界に近かった。一万のうち、まともに動けるのは六千を切っていた。それでも、数と地の利を生かしてじりじりと包囲を縮める。
“後少しで本多忠勝に勝てる”と考えていたら徳川家康から、使者が来た。
「降伏する」
その言葉を聞いたとき、俺は膝から崩れ落ちそうになった。
本陣の幕の中、家康は静かに俺の前に座っていた。若い。二十代半ばだ。しかしその目は、年齢不相応に落ち着いていた。敗れた悔しさより、相手を測るような冷静さが先に立っている。
この男は怖い。本多忠勝より、ある意味怖い。
「明智殿は、天下を狙っておられぬようだ」
家康がそう言った。
「……何故そう思う」
「天下を狙う者は、三河など攻めぬ。京を狙う。されど明智殿の軍は、東に向かっている」
鋭い。こちらの目的を、一度の戦でほぼ看破している。
「俺は東北に行く」と俺は正直に言った。
「天下は要らん。生き残りたいだけだ」
家康は少し間を置いた。そして言った。
「……面白い御仁だ」
交渉は思ったより早く終わった。
家康は従属を認め、三河の兵三千を俺の軍に加えた。そして俺が最も望んでいたものも、差し出された。
本多忠勝。
服部半蔵。
忠勝は不満そうな顔をしながら、黙って頭を下げた。この男に頭を下げさせたことが、俺の今日最大の功績かもしれない。
服部半蔵は最初から無表情だった。忍者というのはそういうものかと妙に納得した。
「使ってみせろ」と半蔵は静かに言った。
「さすれば、働きましょう」
値踏みされている。それでも構わなかった。
俺はマップを見た。東北への道が、少しだけ太くなった気がした。
「ありがとよ」と俺は呟いた。
誰に言ったのかは、自分でも分からない。
夜、利三が湯呑を持ってきた。
「少し、希望が見えましたな」
「ああ」と俺は答えた。「でも本多忠勝はやばすぎる。二度とあいつとは正面から戦いたくない」
利三が珍しく、小さく笑った。
「同感にございます」
マップの上で、東北への道がかすかに光っている。
まだ遠い。まだ死ぬかもしれない。
でも今夜は、少しだけ眠れそうだった。




