第三十八章 謙信の影と、尾張への進軍
三河を出発した翌日。
四万九千の兵が、尾張との国境に向かって進んでいた。
秋の空が高い。
風が西から吹いている。
信長の土地の匂いがした。
俺は馬上でGAMEの〔マップ〕を確認していた。
尾張に織田信長のマーカーが光っている。
信長の兵力をGAMEで確認した。
【織田信長〔不死〕〔第六天魔王〕尾張・美濃 兵力五万二千】
五万二千。
こちらの四万九千とほぼ互角だ。
しかし、信長には〔第六天魔王〕がある。
地の利もある。
尾張は信長の本拠地だ。長年かけて整えた防衛網がある。
簡単な戦いにはならない。
しかし、進むしかない。
尾張の国境まで、あと半日の行程というところで。
半蔵が来た。
足音がした。
この男に足音がするのは、本当に急ぎのときだ。
「半蔵」と俺は馬を止めた。
半蔵が俺の馬の前に立った。
「急報があります」
「言ってくれ」
半蔵が静かに、しかし真剣な顔で言った。
「上杉謙信に、裏切りの気配があります」
俺は馬の上で、固まった。
周囲の進軍が続いている。兵たちが俺の横を歩いていく。
その流れの中で、俺だけが止まっていた。
「詳しく」と俺は言った。声が、思ったより静かだった。
「三つの兆候があります」半蔵が続けた。「一つ。越後で上杉の軍勢が大規模な動員を始めています。演習という名目ですが、規模が異常です。二万を超えています」
「二つ目は」
「謙信公の側近が、織田の使者と密会したという情報があります。場所は越後と信濃の境付近です。確度は中程度ですが、無視できません」
「三つ目は」
「謙信公から、先月以来、明智殿への定期連絡が止まっています。同盟継続中であれば、通常の連絡があるはずです。それが途絶えています」
俺は深呼吸をした。
三つ。
北条の裏切りのときも、三つの兆候があった。
あのときと、同じだ。
しかし、今は、尾張の目の前にいる。
進軍を一時止めた。
全員を集めた。
半蔵の報告を全員に伝えた。
仮陣営が、静まり返った。
家康が最初に口を開いた。
「謙信公が動けば、羽前が最初に危うくなります。東北への補給路が断たれる可能性があります」
「分かっている」
「尾張を攻めながら、東北を守ることは」
「難しい」と俺は正直に言った。「しかし不可能ではない。昌幸が羽前にいる。佐竹義重が常陸にいる。政宗が信濃を守っている」
「謙信公の二万と、信長公の五万二千が同時に動いたら」昌幸が静かに言った。「東北と尾張、二方向への対応は」
「きつい」と俺は認めた。
信玄が静かに言った。
「謙信の動きを確認している時間はあるか」
「ない」と俺は答えた。「ここで止まれば、信長様に準備の時間を与える。尾張の守りが固くなれば、それだけ攻略が難しくなる」
「では選択肢は二つだ」信玄が続けた。「進みながら謙信に対応するか、一度止まって謙信を確認してから進むか」
「時間をかければ、信長が有利になる」と俺は言った。「信長様は時間を使うのが上手い人だ。待てば待つほど、不利になる」
幸村が静かに言った。「明智殿、正直に言う。謙信公は今まで義を守ってきた。同盟を破棄することが、謙信公らしいか」
「らしくない」と俺は即答した。「謙信は義の人だ。理由なく同盟を破棄しない」
「ならば」
「しかし、信長様が謙信に何かを約束した可能性がある」俺は続けた。「義のために動く人が、より大きな義のために動くことはある。信長様が謙信に対して、義に訴える何かを言ったかもしれない」
「何を」と幸村が聞いた。
「例えば」俺は少し間を置いた。「俺が謀反人だという事実だ。謙信は義の人だ。主君を討った謀反人に同盟を結んでいることへの、義的な矛盾を突かれたかもしれない」
仮陣営が静まり返った。
誰もが、その可能性を否定できなかった。
利三が静かに言った。「十兵衛様、謙信公に文を送るべきではないでしょうか」
「送る時間がない」
「しかし、何も言わずに進めば」
「謙信が動くなら、文を送っても変わらない可能性がある」俺は言った。「謙信が信長様の言葉を信じて動くと決めたなら、俺の文では止まらない」
「それでも」
「試みる価値はある」と俺は認めた。「半蔵、謙信への急報を準備してくれ。しかし進軍は止めない。文を送りながら、前に進む」
俺は文を書いた。
馬上では書けない。仮陣営から急いで書いた。
飾らない言葉で。
謙信への文には、一つのことだけ書いた。
「俺は確かに謀反人だ。しかし東北の民は謀反人ではない。民を守るために戦い続けてきた。その民を、見捨てないでほしい」
文を封じた。
半蔵に渡した。
「越後に最速で届けてくれ」
「御意」
半蔵が消えた。
進軍を再開した。
しかし、頭の中に謙信の問題が残り続けた。
家康が馬を並べてきた。「明智殿、決断しましたね」と家康が静かに言った。
「放置して進む、という決断だ」と俺は言った。「正しいかどうか分からない」
「正しくないかもしれません」家康が続けた。「しかし、今は止まることの方が危険です。信長公に時間を与えれば、次の罠を仕掛けられます」
「分かっている」
「それと」家康が静かに言った。「謙信公が動いたとしても、昌幸殿がいます。佐竹殿がいます。政宗殿がいます。東北は一人で守っているわけではありません」
「そうだな」と俺は頷いた。
「明智殿一人が全部背負う必要はありません」家康が続けた。「仲間を信じることも、戦略です」
信玄が俺の反対側に馬を並べてきた。「謙信のことを考えているか」と信玄が言った。
「ずっと考えている」
「儂と謙信は、長年戦い合ってきた」信玄が静かに言った。「あの男の強さは剣ではない。義だ。義のために全てを投げ出せる。それが謙信という男だ」
「だから動くかもしれない」
「しかし」信玄が続けた。「義のために動く男は、義で止まることもある。明智殿の文が届けば、謙信は悩む。悩む時間が生まれれば、俺たちに有利だ」
「時間稼ぎか」
「違う」信玄が俺を見た。「謙信は本物の義の人だ。東北の民のために戦い続けた男の言葉を、無視できる人ではない。儂はそう信じている」
尾張の国境が見えてきた。
四万九千の兵が、国境の手前で展開を始めた。
GAMEの〔マップ〕上で織田信長のマーカーが、こちらを向いた気がした。
信長様が、俺たちの到着を感知した。
半蔵が戻ってきた。
「謙信公への文、越後に向けて出発しました。最速で届けます」
「ありがとう」
「追加の報告があります」半蔵が続けた。
「謙信公の動員した二万が、南に向かっています」
「南というのは」
「信濃の方向です」
俺は歯を食いしばった。
信濃には、政宗がいる。
即座に政宗への伝令を飛ばした。
「政宗、謙信が動くかもしれない。信濃の守りを固めてくれ。無理はするな。時間を稼いでくれれば十分だ」
政宗からの返事が来た。
「謙信公が来るか。面白い。信濃は俺が守る。明智殿は尾張に集中しろ」
この男は、本当に頼もしい。
夜、尾張の国境手前に陣を張った。
篝火が揺れている。
四万九千の兵が、明日の戦に備えている。
俺は本陣で、GAMEの〔マップ〕を見た。
尾張の織田信長のマーカー。
越後で動き始めた謙信のマーカー。
信濃で待つ政宗のマーカー。
東北で守る昌幸と佐竹のマーカー。
全部が、同時に動いている。
忠勝が本陣に来た。「明智殿、謙信の件は」
「放置して進む」と俺は言った。「文を送った。あとは謙信を信じるしかない」
忠勝が少し間を置いた。「信じられるか」
「信じなければ、前に進めない」と俺は答えた。「信じることにした。それだけだ」
忠勝が静かに頷いた。
「明智殿」と忠勝が言った。
「何だ」
「俺は三河で明智殿に負けて、ここまで来た」忠勝が静かに続けた。「最初は納得していなかった。しかし、今は違う」
「どう違う」
「明智殿が守ろうとしているものを、俺も守りたいと思っている」忠勝が真っ直ぐ俺を見た。「東北の民が、笑っている顔を見た。あれを守るために戦うなら、俺は何度でも前に出る」
俺は忠勝を見た。
三河で初めて会ったとき、この男は俺の敵だった。
泣かされた。本当に泣かされた。
しかし、今……忠勝は俺の隣にいる。
【本多忠勝 忠誠100】
最大値。
変わらない最大値。
「ありがとう、忠勝」と俺は言った。
忠勝が短く頷いた。それだけで十分だった。
幸村が入ってきた。「明日の作戦を確認したい」
「ああ」俺は地図を広げた。「信玄殿が先陣を切る。忠勝が中央を担う。幸村は右翼から回り込んで、信長様の側面を突く。家康は後方から補給と全体の把握を担う」
「信長公本人が前線に出てきたら」と幸村が聞いた。
「信玄殿と忠勝に任せる」と俺は言った。
「俺は全体を指揮しながら、信長様への対応を随時判断する」
「《欺瞞》は使うか」
「信長様には《欺瞞》は効きにくい」俺は言った。「あの人は情報を見抜く力がある。中途半端に使えば逆用される。使うなら、ここぞという一回に絞る」
幸村が頷いた。
「明智殿」と幸村が言った。
「何だ」
「俺が信濃で明智殿に負けたのは、《欺瞞》のせいだと思っていた」
「そうだな、あのときは」
「しかし、今は違う」幸村が静かに続けた。「あの負けがあったから、ここにいる。不思議なものだ」
俺は少し笑った。
「俺も同じだ。信長様に討ち京から逃げたから、ここまで来た。負けや逃げが、ここに繋がっている」
全員が引き上げた後、俺は一人で外に出た。
尾張の夜空を見た。
篝火が揺れている。
向こう側にも、篝火が見える。
信長様の篝火だ。
あの光の向こうに、信長様がいる。
「信長様」と俺は呟いた。「俺はここに来た。逃げた男が、あなたの前まで来た」
風が吹いた。
西から来た風が、俺の頬を撫でた。
GAMEの〔マップ〕を確認した。
謙信のマーカーが、南に向かっている。
しかし、速度が、少し遅くなっている気がした。
気のせいかもしれない。
しかし、俺はそれを良い兆候として受け取ることにした。
信じる。
謙信を信じる。
政宗を信じる。
昌幸を信じる。
全員を信じる。
それしか、今の俺にできることはない。
翌朝が来た。
尾張の空が、赤く染まっていた。
四万九千の兵が、静かに動き始めた。
信玄が先頭に立った。〔不死〕の武田信玄が、尾張に向かって馬を進める。
忠勝がその隣に並んだ。
幸村が右翼で動き始めた。
俺は全体を見渡せる位置に陣を取った。
GAMEの〔マップ〕を開いた。
織田信長のマーカーが、こちらに向かって動き始めた。
信長様が、前に出てきた。
「来る」と俺は言った。
誰もが聞いていた。
「行くぞ」俺は決意を呟いた。




