第三十四章 信長の罠
信玄と忠勝が甲斐を出発してから、七日が過ぎた。
俺は武蔵の本陣で、GAMEの〔マップ〕を見続けていた。
二つの戦場が、同時に動いている。甲斐の南、駿河との国境。そして、信濃の西、畿内との境目。どちらも、俺が直接いない場所で動いている。
任せろ。信じろ。
政宗の言葉を何度も繰り返しながら、俺は待ち続けた。
三日目の報告が来た。
「信玄殿と忠勝殿、駿河との国境で今川の先鋒部隊と衝突。撃退しました」
俺は頷いた。
四日目。
「今川の本軍が前進しています。信玄殿、地形を活かした防衛線を構築中」
五日目。
「今川義元、自ら前線に出てきました。」
六日目。
「激戦が続いています。信玄殿と今川が正面からぶつかっています。忠勝殿が最前線で今川の突破を防いでいます」
七日目の朝。
半蔵が飛んできた。
「勝ちました」
俺は立ち上がった。
「詳しく」
「信玄殿が今川の右翼を崩し、忠勝殿が中央を突破しました。今川義元、後退を始めています。駿河方面に撤退中です」
俺は息を吐いた。
武田信玄と本多忠勝。
この二人が組んで、今川義元〔不死〕を退けた。
「信玄殿と忠勝殿に礼を伝えてくれ。よくやってくれたと」
「御意」
半蔵が消えかけた瞬間、俺は呼び止めた。
「信長の動きは」
「今のところ、信濃で止まっています」
「分かった」
安堵したのは、一時間だけだった。
昼過ぎ、半蔵が再び飛んできた。
今度の顔は、朝とは全く違った。
「何があった」と俺は即座に聞いた。
「信長公が動きました」
俺の全身が固まった。
「どこに」
「駿河です」半蔵が静かに続けた。「信長公の軍勢が、信濃から駿河に向けて南下しています。兵力は三万五千。今川が後退した直後のタイミングを突いて、動き始めました」
俺は何も言えなかった。
駿河に。
今川が後退した直後に。
信濃から。
全てのタイミングが、完璧に噛み合っている。
「信玄殿と忠勝殿は」と俺は聞いた。声が掠れていた。
「今川を追って駿河との国境付近にいます。信長公の軍勢が南下してくれば、正面から当たることになります」
「挟み撃ちになるか」
「今川が後退しながら反転すれば、そうなります」
俺は地図を広げた。
駿河の地形を確認した。
信玄と忠勝が今川を追った先に、信長が南下してくる。
後ろに今川。前に信長。
「退路は」
「西側の山道しかありません。しかし険しい地形です」
俺は即座に伝令を飛ばした。
「信玄殿、忠勝殿に急報。信長が駿河に南下している。今すぐ退却しろ。追撃を中止して、甲斐に戻れ」
伝令が飛んだ。
しかし、届くまでに時間がかかる。
俺は歯を食いしばった。
一時間後、半蔵から続報が来た。
「信玄殿と忠勝殿、信長公の南下を察知。退却を開始しました」
俺は息を吐いた。
「無事か」
「今のところ、無事です。しかし信長公の軍勢の追撃が始まっています。険しい山道を退却中です」
「追いつかれるか」
「信玄殿の判断が速かった。おそらく追いつかれません。しかし、消耗は大きいと見ます」
さらに一時間後。
「信玄殿と忠勝殿、甲斐の国境まで退却成功しました。二人とも無事です」
俺は椅子に座り込んだ。
力が抜けた。
二人が無事だった。
それだけが、今この瞬間の全てだった。
翌日、信玄と忠勝が武蔵に戻ってきた。
二人とも、消耗していた。七日間の戦と退却の疲れが、顔に出ている。
しかし、目が生きていた。
「無事でよかった」と俺は言った。
信玄が静かに言った。「今川を追っていたところに、信長が来た。あの頃合いは、偶然ではない」
「分かっている。信長が仕組んだ」
信玄が俺を見た。
「今川を動かしたのも、信長だ。今川が甲斐を攻め、俺たちが今川を追って駿河に入ったところを、信長が後ろから突く。全部、計算されていた」
広間に全員が集まった。
半蔵が全ての情報を整理して報告した。
「確認が取れた情報をお伝えします」半蔵が静かに続けた。「信長公は信濃を取った直後から、今川義元と接触していました。今川に対して、甲斐への侵攻を促した可能性が高い」
「今川が動いたのは信長の指示か」と幸村が言った。
「指示というより、誘導と見ます」半蔵が答えた。「信長公は今川に対して、明智殿が駿河を狙っているという情報を流したと思われます。今川はその情報を信じて動いた」
《欺瞞》だ、と俺は思った。信長が《欺瞞》を使った。
俺が長年使ってきた手を、信長に使われた。
「信長公は最初から計算していた」家康が静かに言った。「今川を動かして、明智殿の兵力を甲斐と駿河に引きつける。その隙に信濃を固めて、駿河に南下する。一石二鳥の策です」
俺は、黙っていた。
全員が俺を見ていた。
しかし、俺は、何も言えなかった。
頭の中で、全てのピースが繋がっていた。
信濃の占領。
今川への誘導。
俺たちが今川を追って駿河に入ったタイミングを突いた南下。
全部が、最初から計算されていた。
信長様は、最初から俺の動きを読んでいた。
俺が甲斐を心配して兵を送ることも。
信玄と忠勝が今川を追うことも。
全部、読んでいた。
俺は固まっていた。
文字通り、固まっていた。
体が動かなかった。
京を逃げ出したあの夜から、ずっと信長様の影を背負って走り続けてきた。
本能寺で討った男が、俺を追い詰めようとしている。
しかも正面からではなく、こういうやり方で。
今川を動かして、俺の隙を作って、信玄と忠勝を危険な目に遭わせた。
〔第六天魔王〕
このスキルの意味を、今初めて本当に理解した。
常識を超えた判断力。心理的圧迫において他の追随を許さない。
敵の戦意を根本から崩す。信長様は、俺の戦意を崩そうとしている。
信玄と忠勝を危険な目に遭わせることで、俺に心理的な打撃を与えようとしている。
利三が心配そうに俺を見た。
「十兵衛様」
俺は動けなかった。
「十兵衛様」と利三がもう一度言った。
今度は少し強い声だった。
俺は顔を上げた。
全員が俺を見ていた。
忠勝が静かに言った。「明智殿」
「ああ」と俺は言った。声が出た。
「動けるか」と忠勝が聞いた。
「……動ける」
「ならば動け」忠勝が静かに言った。「信長の策にはまったことは、事実だ。しかし俺たちは生きている。甲斐も守れた。終わっていない」
信玄が俺の前に来た。「明智殿」
「信玄殿、すまなかった」と俺は言った。「俺の判断のせいで、危険な目に遭わせた」
「謝罪は要らない」信玄が静かに言った。
「戦には策が付き物だ。信長の策が上回った。それだけのことだ」
「それだけのことか」
「それだけのことだ」信玄が俺を見た。
「しかし、一つだけ、明智殿に言いたいことがある」
「何だ」
「信長は確かに天才だ。今回の策も見事だった」信玄が続けた。「しかし儂は信長と一度も戦ったことがなかった。今日、初めて信長の戦い方を体感した」
「どうだった」
「強い。しかし」信玄が静かに言った。
「勝てない相手ではない」
その言葉が、俺の固まった体に、何かを注入した。
勝てない相手ではない。
武田信玄が、そう言っている。
信長の策を体感した上で、そう言っている。
俺は深呼吸をした。
「信長様への使者は、まだ返事が来ていない」と俺は言った。
「来ないかもしれない」と家康が静かに言った。「今回の件で、信長公の意思は明確です。話し合いより先に、行動で示している」
「つまり戦う気だということか」
「可能性が高いです」家康が続けた。「しかし信長公が駿河を取れば、次は甲斐です。甲斐が落ちれば武蔵が危うくなる。防衛の優先順位を、今すぐ組み直す必要があります」
俺は地図を広げた。
信濃の信長。
駿河に南下した信長の軍勢。
甲斐の国境。
全てを確認しながら、頭を動かし始めた。
固まっている場合ではない。
信長様が仕組んだ罠に、はまった。
しかし、終わっていない。
忠勝が言った通り、終わっていない。
「策を立て直す」と俺は言った。声に力が戻っていた。
全員が頷いた。
「まず甲斐の防衛を最優先にする。信玄殿と忠勝殿には休む時間を与えたいが」
「休みは要らない」と忠勝が即座に言った。
「儂も要らない」と信玄が続けた。
この二人は、本当に人間なのか。
幸村が静かに言った。「一つだけ確認させてくれ」
「何だ」
「信長公への使者、まだ返事を待つか」
俺は少し間を置いた。
「待つ」と俺は言った。「今回の件が信長様の意思表示だとしても、俺はまだ話し合いを諦めない」
「なぜだ」
「信長様が仕組んだなら、信長様は俺たちの動きを把握している」俺は静かに言った。「それだけの情報力と判断力がある人が、俺からの文を無視するとは思えない。何か理由があって、返事を出していない」
「楽観的すぎないか」と幸村が言った。
「楽観的かもしれない」と俺は認めた。
「しかし、信じることをやめたら、俺は終わる。それだけは分かっている」
夜、俺は一人でGAMEの〔マップ〕を見た。
駿河に、信長のマーカーが新しく光り始めていた。
今川義元のマーカーが、駿河の奥に押し込まれている。
信長は確実に、東に向かっている。
俺は折れた扇子を手に取った。
二つに折れたまま、しかし捨てていなかった。
「信長様」と俺は呟いた。「まだ終わっていない」
GAMEの〔マップ〕の信濃と駿河で、織田信長が静かに、しかし確実に輝いていた。




