第三十一章 小田原の決断
小田原城に入ったのは、春の昼過ぎだった。
城は静かだった。戦の後の静けさだ。兵の姿がほとんどない。城下町の人間が、遠巻きに俺の一行を見ている。
利三が隣で静かに言った。「立派な城ですな」
「ああ」と俺は答えた。
小田原城。難攻不落と言われた城だ。しかし今日、その城に俺が入っている。なんとも言えない気持ちだった。
北条氏康が、広間で待っていた。想像より、老いていた。五十代だろうか。しかし目が、まだ死んでいない。敗れた男の目ではなく、全てを受け入れた男の目だ。
俺は氏康の前に座った。しばらく、二人とも無言だった。最初に口を開いたのは、氏康だった。
「明智殿、来てくれたか」
「来ると言っていた」と俺は答えた。「三ヶ月前の文に書いた」
「返事をしなかった」
「知っている」
また沈黙が続いた。
「里見義堯の件を、謝りたい」と氏康が静かに言った。
俺は氏康を見た。
「謝っても、義堯殿は戻らない」
「分かっている」氏康が続けた。「あの男を処刑したとき、俺は後悔した。しかし、もう遅かった」
「なぜ処刑した」と俺は聞いた。「義堯殿を生かしておくことはできなかったのか」
氏康が少し間を置いた。「安房の民が義堯を担ぎ上げる可能性があった。それが怖かった。合理的な判断だった。しかし」
「しかし?」
「人として、間違いだったと思っている」
俺は氏康を見た。この男は、後悔している。本当に後悔している。しかし、それは義堯の死を取り消さない。
「なぜ同盟を破棄した」と俺は聞いた。
氏康が静かに答えた。「秀吉の圧力が、想定以上だった。関東に来れば、明智殿と合わせて二方向から挟まれる。それより先に秀吉についた方が、北条の存続には有利だと判断した」
「俺への文が届いたはずだ。義堯殿のことを書いた」
「届いた」氏康が静かに言った。「読んだ。何度も読んだ」
「それでも返事をしなかった」
「返事ができなかった」氏康が俺を見た。「明智殿の文を読んで、返事をすれば、心が揺れると思った。揺れれば、決断できなくなる。だから読まなかったことにした」
俺は深呼吸をした。この男は正直だ。言い訳をしない。広間の外で、家康と利三が待っている。
俺は少し考えた。「氏康殿、一つ聞く。降伏した後、どうしたいか」
氏康が俺を見た。「どうしたい、とは」
「北条をどうしたいか。お前自身がどうなりたいか」
氏康が長い間を置いた。そして、静かに言った。
「明智殿に従う気はない」
俺は氏康を見た。
「理由を聞かせてくれ」
「義堯を殺した。同盟を破棄した。秀吉についた。明智殿を裏切った」氏康が静かに続けた。「これだけのことをしておいて、今さら従います、とは言えない。それは俺の武士としての矜持が許さない」
「では」
「処刑してくれ」氏康が静かに言った。「北条氏康として、けじめをつけたい」
広間が静まり返った。俺は氏康を見た。
この男は、本気で言っている。俺は立ち上がった。
「少し、時間をくれ」
広間を出た。廊下で、家康と利三が待っていた。全員が聞いていたはずだ。
「どうするつもりですか」と家康が静かに聞いた。
「分からない」と俺は正直に言った。「氏康を処断するつもりはなかった。しかし本人が望んでいる」
「処断しなければ」と利三が静かに言った。「北条の残党が氏政を担ぎ上げる可能性があります。関東の安定が、長年保てない」
「処断すれば」と家康が続けた。「北条の一族と家臣が、明智殿に従いやすくなります。けじめがつくからです。しかし」家康が少し間を置いた。「明智殿がそれを望むかどうかは、別の話です」
俺は廊下から外を見た。小田原の春の庭が広がっている。桜が咲いていた。
義堯が「東北の雪を見たかった」と言っていた。
義堯は桜も見られなかった。
「仲間たちに聞く」と俺は言った。
伝令を飛ばした。
武蔵で待っている政宗に。磐城の忠勝に。下野の幸村に。甲斐の信玄に。
全員に同じ内容を伝えた。
「北条氏康が処断を望んでいる。お前たちの意見を聞かせてくれ」
返事は早かった。
忠勝から。「武士が自らけじめを求めている。その意思を尊重すべきだ」
幸村から。「氏政は義堯殿を殺した。処断やむなし。しかし明智殿が決めることだ」
政宗から。「処断しなければ、関東が安定しない。長い目で見れば、処断が正解だ。しかし俺には軽く言えない」
信玄から。「戦国において、敗者の処断は珍しくない。氏康は武士として死ぬことを選んだ。それを受け入れることも、一つの義だ」
昌幸から。「難しい判断です。しかし、氏康殿が自ら望んでいるなら、止める理由がない」
全員の言葉を受け取った。処断を止める者は、誰もいなかった。俺は廊下に一人で立った。長い間、庭の桜を見た。
義堯の死は、北条が作った。氏康はそのけじめを自分で求めている。止める理由が、俺にもなかった。
しかし、重かった。この重さが消えることは、これから先もないだろう。
俺は広間に戻った。氏康が、変わらず座っていた。俺は氏康の前に座った。
「氏康殿」と俺は言った。
「はい」
「一つだけ聞かせてくれ。後悔していることは何か」
氏康が少し驚いた顔をした。しばらく考えた後、静かに言った。「義堯を生かしていれば、と思っている。あの男が生きていれば、安房の民が笑っていたかもしれない」
俺は頷いた。
「もう一つは」と氏康が続けた。「明智殿の文を読んで、返事をしなかったことだ。返事をしていれば、何かが変わったかもしれない。変わらなかったかもしれない」
「そうかもしれない。しかし試みるべきだった」俺は深く息を吐いた。
「受け入れる」と俺は言った。「氏康殿の望み通りにする」
氏康が静かに頷いた。
「一つだけ頼みがある」氏康が言った。
「聞かせてくれ」
「北条の一族と家臣を、苦しめないでくれ。民も同じだ。関東の民は何も悪くない」
「約束する」と俺は即答した。「北条の民は俺が守る。一族と家臣は、従う者は受け入れる」
氏康が深く頭を下げた。「ありがとうございます」
処断は、その日の夕暮れに行われた。小田原城の庭で、桜の花びらが舞う中で。
氏康は最後まで、静かだった。騒がず、泣かず、ただ真っ直ぐに座っていた。武士として、けじめをつけた。
夜、俺は小田原城の高台に立った。相模湾が見えた。暗い海が、月明かりに光っていた。
利三が隣に来た。「十兵衛様」
「ああ」
「北条氏、滅亡しました」
その言葉が、重く胸に落ちた。北条氏滅亡。京を逃げ出したあの夜、こんな日が来るとは思っていなかった。
「義堯殿」と俺は呟いた。「北条は滅んだ。お前の死の重さに、少しはけじめがついたか」
海風が吹いた。答えはない。しかし、この風が義堯からの返事のような気がした。
GAMEの〔マップ〕を確認した。北条氏康のマーカーが、消えていた。安房と相模が、明智の色に染まっている。
関東がほぼ、明智の色になっていた。
明智軍支配領域 十五ヶ国
十五ヶ国。
京から始まった旅が、ここまで来た。しかし、喜べなかった。義堯が死んで、氏康が死んで、積み上がった十五ヶ国だ。
翌朝、全員に報告した。
「北条氏、滅亡。安房と相模を制圧した。これで関東はほぼ明智の色になった」
広間が静かだった。誰も喜ばなかった。
全員が、この勝利の重さを感じていた。
幸村が静かに言った。「次はどうする」
「関東を固める」と俺は言った。「北条の民を守る。一族と家臣を受け入れる。そして」
「そして」
「信長様に備える」
広間が静まり返った。GAMEの〔マップ〕の畿内に、〔第六天魔王〕マーカーが今日も光っている。
秀吉との戦いが続いているらしい。しかし、いつか、あの男が東を向く。
その日まで、積み上げ続ける。夜、俺は一人でGAMEの〔マップ〕を見た。
十五ヶ国が、静かに光っている。死んだ者たちの顔が浮かんだ。義堯。氏康。戦場で倒れた無数の兵たち。
俺が作ってきたものは、この人たちの死の上に成り立っている。
その重さを、忘れてはならない。絶対に、忘れてはならない。
「みんな、見ていてくれ」と俺は呟いた。
GAMEの〔マップ〕の東北が、遠い北で静かに輝いていた。
あの日、逃げ出した土地が今や、俺の守るべき場所の中心にある。




