第二十九章 同盟の亀裂
一五六二年、二月。
武蔵と甲斐での回復が、着実に進んでいた。冬の寒さの中でも、兵の訓練は続いている。幸村が下野で、信玄が甲斐で、忠勝が磐城で、それぞれの場所で兵を鍛え続けていた。
GAMEの兵力表示を確認した。
【明智軍 総兵力 六万一千】
六万を超えた。
京を逃げ出したあの夜から、信じられない数字になっている。内政も安定していた。家康が整えた各国の奉行制度が機能し始め、報告が定期的に上がってくる。年貢収入が増え、街道が整い、市が賑わっている。
表向きは、順調だ。
しかし、俺には、ずっと引っかかっていることがあった。北条氏康からの連絡が、減っていた。同盟を結んだ直後は、定期的に使者が来ていた。武蔵の情勢、関東の動向、秀吉への対応。情報交換が活発だった。
しかし最近、その頻度が明らかに落ちている。一ヶ月に一度が、二ヶ月に一度になり、今は三ヶ月近く使者が来ていない。
「気のせいかもしれない」と俺は思っていた。
しかし、GAMEの〔マップ〕の北条マーカーを見るたびに、何かが引っかかった。
その引っかかりが、現実になった。二月のある朝、半蔵が俺のところに来た。
いつも通り、気配もなく現れた。しかし、今日の半蔵の顔は、いつもと違った。
この男がこういう顔をするのは、本当に重要なことを伝えるときだ。
「半蔵」と俺は言った。「何があった」
半蔵が静かに座った。
「北条に、裏切りの兆しがあります」
広間が、凍りついた。
俺は半蔵を見た。「詳しく話してくれ」
「三つの兆候があります」半蔵が指を立てた。「一つ。北条の間者が、明智領内の城の守備状況を調べています。武蔵の各城を中心に、兵力の配置と補給路を確認している動きが確認されています」
俺は黙って聞いた。
「二つ。北条氏康の側近が、秀吉の使者と密会しています。場所は小田原から離れた宿場です。人目を避けた動きです」
俺の胸に、冷たいものが走った。
「三つ」半蔵が続けた。「北条の軍勢が、武蔵との国境付近に集結し始めています。演習という名目ですが、規模が大きすぎます」
三つの兆候が、全部同じ方向を指していた。
俺は深呼吸をした。
「いつ動くと思う」と俺は聞いた。
「早くて一ヶ月。遅くて三ヶ月」と半蔵が静かに答えた。「春になれば、兵が動きやすくなります。雪が解ける前に準備を整え、春に動くというのが最も合理的な判断です」
「秀吉との密会の内容は分かるか」
「完全には把握できていません」半蔵が少し悔しそうに言った。「しかし状況から推測すれば、秀吉が北条に何かを約束した可能性があります。関東の支配権の承認、あるいは明智討伐後の領地保証」
俺は目を閉じた。里見義堯を渡して、作った同盟だった。義堯が死んで、繋いだ絆だった。それが、今、崩れようとしている。
利三が静かに入ってきた。
半蔵の報告を聞いていたらしく、顔色が普通ではなかった。
「十兵衛様」と利三が言った。
「分かっている」と俺は答えた。
「義堯殿が」と利三が言いかけた。
「分かっている」と俺は繰り返した。
広間が静まり返った。義堯の死が、また胸に戻ってきた。あの人が死んで作った同盟が、裏切られようとしている。
怒りが来た。しかし、怒りをぶつける相手が、ここにいない。俺は拳を握りしめて、それを飲み込んだ。
全員を集めた。
家康、利三、政宗、信玄、忠勝、幸村、昌幸、半蔵、安東愛季。
全員に半蔵の報告を伝えた。広間が静まり返った。
最初に口を開いたのは、信玄だった。
「北条が秀吉と組むか」信玄が静かに言った。「武田も北条も、長年関東で競い合ってきた。しかし、秀吉という外圧の前に北条が折れた」
「折れてはいない」と俺は言った。「まだ動いていない。兆しだ」
「しかし、兆しは現実になります」と家康が静かに言った。「北条氏康は合理的な判断をする方です。秀吉の圧力と明智殿の戦力を比較して、秀吉の方が強いと判断すれば、迷わず秀吉に従います」
「止められないか」
「止める方法が一つあります」家康が続けた。「北条に、秀吉より明智殿の方が頼りになると、実感させることです」
「どうやって」
「それが問題です」家康が静かに言った。
「言葉では通じない。北条は行動を見ます」
政宗が口を開いた。「武力で脅すか」
「それは最後の手段だ」と俺は即座に言った。「北条を力で押さえれば、秀吉に一気に走る。逆効果になる」
「では懐柔か」政宗が呟く。
「何かを与える」と俺は言った。「北条が欲しいものを与えれば、秀吉より俺の方が有利だと判断するかもしれない」
「北条が欲しいもの」昌幸が静かに言った。「それは何ですか」
俺はGAMEの〔マップ〕を見た。関東の地図を確認した。北条の領地。小田原を中心に、相模、伊豆、武蔵の一部を持っている。しかし、武蔵は俺が取った。
「武蔵の一部を返すか」と政宗が言った。
「それは」と利三が慌てた。
「戦って取った土地を返すのか」と忠勝が静かに言った。この男の声に、珍しく感情が滲んでいた。
「分かっている」と俺は言った。「そう簡単に決められない」
信玄が静かに言った。「明智殿、一つ聞いていいか」
「何だ」
「北条が裏切った場合、どうなる」
「武蔵が戦場になる」と俺は答えた。「北条の三万五千が武蔵に来て、秀吉の本軍と挟み撃ちになる可能性がある。東北への補給路が断たれる」
「上杉謙信は動くか」
「謙信は同盟を守る人だ。しかし謙信が動くまでに、武蔵が危うくなる」
「つまり」信玄が静かに続けた。「北条の裏切りは、明智殿にとって致命的になる可能性がある」
「最悪の場合、そうなる」
信玄が腕を組んだ。「ならば北条を引き留めることが、最優先だ」
家康が静かに言った。「明智殿、一度、北条氏康に会いに行くべきではないでしょうか」
俺は家康を見た。「俺が直接、か」
「はい」家康が続けた。「使者を送るのではなく、明智殿自身が小田原に行く。それだけで、北条への誠意の示し方が変わります」
「危険性がある。小田原に入れば、人質になる可能性がある」
「その可能性を承知で行くことが、誠意の証明になります」家康が静かに言った。「北条氏康は、そういう男です。度胸のある行動を、評価します」
俺は少し考えた。
「俺が小田原に行く間、武蔵の守りは」
「忠勝殿と政宗殿に任せます」家康が答えた。「この二人がいれば、武蔵は守れます」
忠勝が静かに言った。「明智殿が小田原に行くなら、俺も一緒に行く」
「お前が来れば、武蔵の守りが薄くなる」
「俺抜きで明智殿を小田原に行かせるわけにはいかない」忠勝が言った。「主君が危ない場所に一人で行くのを、家臣が黙って見ていられるか」
幸村が静かに言った。「俺も行く」
「下野を誰が守る」
「義重殿がいる。半蔵がいる。二人に頼む」
俺は全員を見回した。誰も引こうとしない。
「俺は一人で行く」と俺は言った。「忠勝と幸村は武蔵に残れ。」
「なりません」と利三が言った。珍しく、強い言葉だった。「十兵衛様一人で小田原には行かせません」
「お前はどうする」
「私がお供します」利三が静かに言った。「十兵衛様の傍は、私の場所です」
夜、俺は一人でGAMEの〔マップ〕を見た。北条のマーカーが小田原で光っている。その横の表示が、まだ〔同盟中〕になっている。
まだ、裏切っていない。まだ、間に合うかもしれない。義堯の死が作った同盟だ。
簡単に失ってたまるか。
俺は決めた。「小田原に行く」
翌朝、政宗が俺のところに来た。
「小田原に行くのか」
「ああ」
「危険だ」
「分かっている」
「北条が本当に秀吉と組んでいれば、捕まえられる可能性がある」
「分かっている」と俺は繰り返した。
政宗が少し間を置いた。
「……一つ、俺から提案がある」
「聞かせてくれ」
「小田原に行く前に、北条氏康に文を送れ」政宗が静かに続けた。「内容は一つだけ。里見義堯のことを書け」
俺は政宗を見た。
「義堯の件を書く。北条の要求に応じて義堯を渡した。その代償として北条との同盟を作った。その同盟を、今なぜ崩そうとしているのか。それだけ書け」
「感情的すぎないか」
「感情的でいい」政宗が静かに言った。「北条氏康は武士だ。義を重んじる。義堯という人間の死の重さを、正面からぶつけろ。計算ではなく、人間として」
俺は政宗を見た。この男が、こういうことを言うとは思わなかった。
「政宗、お前は」
「俺も義堯殿と酒を飲んだ」政宗が短く言った。「忘れていない」
俺は机に向かった。文を書いた。飾らない言葉で。里見義堯が白装束の北条使者と去っていった朝のことを書いた。
義堯が「すまぬ」という俺の言葉を受けて、東北の雪を見たかったと言ったことを書いた。その義堯が死んで作った同盟を、裏切ろうとしているのはなぜか。
最後に一行だけ書いた。
「義堯殿の死を、無駄にしないでほしい」
文を封じた。使者に渡した。夜、半蔵が来た。
「北条の動きに変化があります」
「何が変わった」
「国境付近に集結していた軍勢が、少し後退しました」半蔵が静かに言った。「まだ兆しの段階ですが、何かが変わったかもしれません」
俺は窓の外を見た。冬の夜空に、星が出ていた。
「待つ」と俺は言った。「文への返事を待つ」
GAMEの〔マップ〕の北条マーカーが、小田原で静かに光っていた。〔同盟中〕の表示が、まだそこにある。義堯の言葉が、頭に蘇った。
「明智殿は変わった武将だ」
俺は変わった武将でも良い。この同盟を、守りたい。




