第二十三章 同盟の代償
北条からの使者が下総に来たのは、安房割譲の返事から三日後だった。
使者は丁寧な物腰の男だった。北条氏政の側近だという。俺は広間で使者を迎えた。家康と利三が隣に座っている。同盟の詳細を話し合う。そのはずだった。
使者が口を開いた。
「北条氏政様より、明智殿への感謝を申し上げます。安房の割譲、誠意として受け取りました」
「ありがとうございます」と俺は答えた。
「同盟の条件について、話し合いたいと思っています」
「はい」使者が頷いた。「北条様も同盟には前向きです。ただし、一つお願いがございます」
俺は静かに聞いた。
「里見義堯を、北条に引き渡していただきたい」
広間が、凍りついた。俺は使者の顔を見た。真剣な顔だ。冗談ではない。
「里見義堯は、現在明智殿の配下にいると聞いています」使者が続けた。「里見と北条は長年の宿敵。義堯が生きている限り、安房の民が義堯を担ぎ上げる可能性がある。北条様は、それを懸念されています」
「引き渡したら、どうなる」と俺は聞いた。
使者が少し間を置いた。
「それは北条様のご判断になります」
遠回しな言い方だ。しかし意味は分かった。処刑される。俺は黙った。家康が静かに俺を見ていた。利三が下を向いた。
「少し、時間をいただけますか」と俺は使者に言った。
「もちろんです」使者が下がった。
広間に俺と家康と利三だけが残った。誰も口を開かなかった。俺はGAMEを開いた。里見義堯のGAMEのマーカーが、下総の城で静かに光っている。
【里見義堯 忠誠80】
昨日まで酒を飲んでいた。今朝も顔を合わせた。「明智殿の東北、いつか見てみたい」と言っていた。
俺はを閉じた。「家康」と俺は言った。声が掠れていた。「断ったらどうなる」
家康が静かに答えた。「北条との同盟が崩れます。武田が武蔵にいる今、北条が孤立すれば秀吉に取り込まれる可能性が高い。そうなれば東北への圧力が、一気に強まります」
「受け入れたら」
「北条との同盟が成立します。秀吉への防衛線が東北から関東まで延びる。幸村の下野も安定する」
俺は黙った。
「十兵衛様」と利三が静かに言った。「どちらが正しいかは、私には分かりません。しかしどちらを選んでも、十兵衛様が背負うことになります」
俺は立ち上がった。
「里見殿を呼んでくれ」
利三が頷いて出ていった。
家康が俺を見た。「決めましたか」
「決めていない」と俺は正直に言った。「でも先に、義堯殿に話す」
「話してから決めるのですか」
「騙して渡すことはしない。最初にそう言った。それだけは変えない」
家康が静かに目を閉じた。
里見義堯が広間に来た。俺の顔を見た瞬間、義堯が何かを察した。この男は鋭い。海を生きてきた男の勘が、空気を読んだのかもしれない。
「明智殿」と義堯が静かに言った。「北条の使者が来ましたな」
「ああ」
「何を要求されました」
俺は正面から義堯を見た。
「里見を北条に引き渡せと言われた」
広間が静まり返った。義堯が目を閉じた。長い沈黙だった。
「北条に渡れば、どうなるか」と義堯がゆっくり聞いた。
「分からない」と俺は言った。嘘はつきたくなかった。「しかし、おそらく」
「処刑される」と義堯が静かに言った。自分で言った。
俺は答えられなかった。
「断るつもりか」と義堯が聞いた。
「まだ決めていない」と俺は言った。「里見殿に話してから、一緒に考えたかった」
義堯が俺を見た。長い間、じっと見ていた。
「一緒に考える、か」義堯が静かに言った。「仲間に引き渡す前に話を聞く武将を、俺は他に知りません」
「それが当然だと思っている」
「当然ではありませぬ」義堯が静かに首を振った。「武将は命令する。部下は従う。それがこの時代の常識だ。明智殿はそれを逸脱している」
俺は義堯の隣に座った。利三が察して、酒を持ってきた。誰も何も言わなかった。
俺は盃に酒を注いで、義堯に渡した。義堯が受け取った。二人で飲んだ。
しばらくの間、言葉がなかった。秋の風が窓から入ってくる。遠くで虫が鳴いている。俺は盃を置いて、義堯を見た。
「すまぬ」
声が震えた。これ以上の言葉が出なかった。すまぬ、の三文字だけだった。
義堯が俺を見た。その目に、怒りはなかった。悲しみもなかった。ただ、静かだった。
「明智殿」と義堯が言った。「東北の民を、守り続けてくだされ」
「ああ」と俺は言った。
「幸村殿と忠勝殿によろしく伝えてくれ。良い武将だ」
「伝える」
「安東殿の水軍も、見事だった」義堯が少し笑った。「海の上で、あんな戦をする者に初めて会った」
「義堯殿の水軍も、見事だった」と俺は言った。
義堯が盃を飲み干した。俺も飲み干した。もう一杯、注いだ。また飲んだ。夜が更けていく中で、二人は飲み続けた。
戦の話をした。安房の海の話をした。東北の雪の話をした。
義堯が「いつか東北の雪を見てみたかった」と言った。
俺は何も言えなかった。
義堯が静かに言った。「明智殿、泣くな」
俺は自分の頬が濡れていることに、そのとき初めて気づいた。いつの間に、泣いていた。
「武将が泣いてどうする」と義堯が言った。しかしその声は優しかった。
「泣かせてくれ」と俺は言った。「少しだけ」
義堯が何も言わなかった。ただ、隣で盃を持っていた。夜明け前、義堯が立ち上がった。
「明智殿、俺は行く」
俺も立ち上がった。
「一つだけ頼みがある」と義堯が言った。
「何でも」
「安房の民を、頼みます。北条が入っても、民が苦しまないように。できる限り、口を利いてくだされ」
「約束する」と俺は言った。「必ず」
義堯が頷いた。そして、俺に向かって深く頭を下げた。
「良い武将に会えた。それだけで、十分だ」
里見義堯が北条の使者と共に去っていった。城門から、その背中を見送った。振り返らなかった。真っ直ぐ、前を向いて歩いていった。海を生きた武将の、最後の背中だった。
三日後、北条から報告が来た。半蔵が静かに読み上げた。
「里見義堯、小田原にて処刑されました」
俺は何も言わなかった。GAMEを開いた。里見義堯のマーカーが、消えていた。
消えた場所を、しばらく見ていた。
北条との同盟が、正式に締結された。
同盟の文が届いた日、俺は一人で執務室にいた。文を開いた。北条氏政の花押がある。形式的には、完璧な同盟文書だ。
俺はそれを机に置いて、窓の外を見た。
秋の空が広がっている。
義堯が言っていた。「いつか東北の雪を見てみたかった」
見せてやれなかった。
利三が静かに入ってきた。
「同盟、成立しましたな」
「ああ」
「東北の守りが、一段階厚くなりました」
「そうだな」
利三が少し間を置いた。「義堯殿のことは、忘れません」
「俺も忘れない」と俺は言った。「一生、忘れない」
その夜、俺は全員に義堯の死を伝えた。
広間が静まり返った。家康が目を閉じた。
安東愛季が深く頭を下げた。
政宗が「立派な武将だった」と静かに言った。
家康は何も言わなかった。しかし目が赤かった。
昌幸が静かに言った。「戦国とは、かくも残酷なものです」
誰も、その言葉に反論しなかった。軍議の後、俺は一人で城の高台に立った。南の空を見た。安房の海が、見えない距離の向こうにある。
義堯が愛した海だ。
俺は呟いた。「東北の雪が、どれほど綺麗か、いつか話したかった」
風が吹いた。秋の風が、南から来た。まるで返事のようだと、俺は思った。
翌朝、俺はGAMEを開いた。北条との同盟が、地図の上で新しい色を作っていた。
【北条氏政 〔同盟中〕】
上杉謙信と北条氏政。東と西の二つの同盟が、東北を挟むように存在している。
義堯の死が作った同盟だ。
俺はこの同盟を、絶対に無駄にしない。
そう決めた。GAMEを閉じて、俺は北を向いた。東北が、静かに待っていた。




