第二十一章 バタバタする俺と、政宗の一喝
常陸を出て、下総に移った。
理由は単純だ。下総は取ったばかりで、統治の基盤が整っていない。結城政勝が隠居して去った後、城の管理も民への対応も、全部宙に浮いたままだ。誰かが行かなければならない。
それが俺だと判断した。
下総の城に入った初日、利三が書類の山を持ってきた。
「取り急ぎ、確認が必要なものだけ選びました」
「これが取り急ぎか」と俺は呟いた。
山が、高い。
下総での日々が始まった。
午前中は書類と格闘する。年貢の見直し、街道の確認、城下町の整備、民への布告。結城政勝が長年治めてきた土地だ。仕組みは整っているが、明智の色に染め直す作業が必要だ。
午後はマップを確認する。
武田信玄のマーカーが上野で動いている。北条のマーカーが小田原で固まっている。秀吉のマーカーが東海道で蠢いている。
夜は半蔵の報告を聞く。情報が多すぎて、頭が追いつかない。問題は三つ、同時に動いていた。一つ目。兵力の回復だ。
下総に来てからも、兵の増強を続けている。しかし常陸と下総に兵力が分散しているため、訓練の効率が悪い。利三が「一ヶ所に集めた方が」と何度も言うが、守備の都合上、分散せざるを得ない。
二つ目。武田信玄の動向だ。
上野で止まっているが、いつ動くか分からない。半蔵が毎日報告を持ってくるが、情報が錯綜している。「北条と交渉している」「関東平野に向かう準備をしている」「一度甲斐に引き返した」と、日によって内容が変わる。
武田信玄が動けば、幸村の下野が真っ先に危うくなる。
三つ目。北条への同盟依頼だ。
家康の助言を受けて、俺は北条氏政に同盟の打診をすることにした。敵として戦うより、秀吉という共通の脅威に対して手を組む方が合理的だ。秀吉が東に来れば、北条も俺も同じ立場になる。
しかし、北条への使者をどう送るか、文の内容をどうするか、条件をどうするか。考えることが山積みだ。
ある朝、俺は全部を一度にやろうとした。
書類を片手にマップを確認しながら、北条への文の下書きを書き、同時に半蔵への指示を出そうとした。
結果、全部が中途半端になった。
書類に判を押し間違えた。マップの確認で重要な変化を見落とした。北条への文は三行で止まったまま進まなかった。半蔵への指示は伝わらなかったらしく、半蔵が夜に確認しに来た。
「申し上げます。指示の内容が不明確でした。もう一度、整理して伝えていただけますか」
俺は頭を抱えた。次の日。
今度は兵力の配置を変えようとして、利三と口論になった。
「下総の守備に三千を追加したい」と俺は言った。
「家康殿から、これ以上の分散はだめだと申し上げたはずです」と利三が返した。
「でも下総が薄すぎる」
「薄いのは承知していますが、全体の兵力から見て無理があります」
「なんとかならないか」
「なりません」
利三が珍しく、はっきり言った。
俺は黙った。
正しいのは利三だ。分かっている。しかし分かっていても、焦りが先に出る。
さらに次の日。
武田信玄が上野で動いたという急報が来た。
俺は即座に全員に伝令を飛ばした。
磐城の忠勝に。羽前の昌幸に。常陸の義重に。下野の幸村に。東北各地の守備隊に。
全員に同時に同じ情報を流した。
するとすぐに返事が来始めた。
忠勝から「分かった、磐城は動かない」。
昌幸から「上野から羽前への侵攻はない。武田は南を向いている。落ち着いてください」。
義重から「常陸は問題ない」。
幸村から「下野は守る。余計な伝令は要らない。集中が乱れる」。
最後の言葉が刺さった。俺の伝令が、幸村の集中を乱していた。そして、北条への使者の件。文を五回書き直した。
最初は長すぎた。削ったら今度は短すぎた。条件を詳しく書いたら脅しみたいになった。柔らかく書いたら意図が伝わらない文になった。五回目もまだ気に入らなかった。
家康に見せると、「言いたいことが多すぎます。一つに絞ってください」と言われた。
「何を一つに絞る」
「明智殿が北条に何を伝えたいか、一番大事なことは何ですか」
「秀吉という共通の脅威に対して、手を組みたいということだ」
「ならその一点だけ書けばいい。他は全部削る」
俺は六回目の文を書いた。三行になった。
「短すぎないか」と俺は心配した。
「十分です」と家康が言った。
そんな日々が続いた。バタバタしていた。
自分でも分かっていた。あれもこれも同時に動かそうとして、全部が中途半端になっている。
遠江から逃げていた頃の焦りとは違う。あのときは死の恐怖があった。今の焦りは、もっと小さくて、しかしじわじわと俺を蝕む種類のものだ。
責任の重さ、というやつかもしれない。
十ヶ国の民が、俺の判断一つに左右される。仲間たちが、俺の指示で動いている。その重さが、俺を急かしている。
そんなある夜。伊達政宗が俺の執務室に来た。呼んでいない。
最近、政宗は磐城と常陸の間を行き来しながら、南の防衛線の強化をしていた。今日は常陸に立ち寄ったと聞いていたが、そのまま下総まで来たらしい。
「政宗、何かあったか」と俺は書類から目を上げずに聞いた。
「用がなければ来てはいけないか」
「そういうわけじゃないが、珍しいと思って」
政宗が俺の向かいに、断りもなく座った。俺はその様子に少し驚きながら、書類に戻った。しばらく沈黙が続いた。政宗がじっと俺を見ていた。
「明智殿」と政宗が言った。
「何だ」
「五月蝿い」
俺は思わず書類から顔を上げた。
「……何?」
「五月蝿い、と言った」政宗が静かに、しかしはっきりと繰り返した。「ここ最近、明智殿の伝令と指示と確認が多すぎる。各地の将が、判断に集中できていない」
俺は言葉が出なかった。
「忠勝殿から話を聞いた」政宗が続けた。「一日に何度も確認の伝令が来ると。幸村殿も同じだと。常陸の義重殿も、最近明智殿からの伝令が増えすぎていると言っていた」
「……それは、心配だから」
「心配なら信じろ」政宗が真っ直ぐ俺を見た。「任せたなら、任せ切れ。忠勝殿に磐城を任せたなら、毎日確認するな。幸村殿に下野を任せたなら、幸村殿を信じろ。何度も確認することは、信頼していないということだ」
俺は黙った。政宗の言葉が、胸に刺さった。信頼していない、ということだ。
そんなつもりはなかった。信頼しているからこそ任せた。しかし不安で、確認せずにはいられなかった。
「心配するのは分かる」と政宗が続けた。「しかし、心配を伝令にして飛ばすのは心配を押しつけることだ。受け取った将は、自分の仕事をしながら明智殿の心配にも対応しなければならない。それが積み重なれば、消耗する」
俺はまだ黙っていた。
「北条への同盟依頼も、武田の動向も、兵力の配置も、全部同時に動かそうとしている」政宗が言った。「一人の人間にできることには限界がある。明智殿は今、その限界を超えている」
俺は深呼吸をした。
「……政宗、お前はなんで俺にこういうことを言いにくる」
「言える立場の人間が言わなければ、誰も言わないからだ」政宗が静かに答えた。「家康殿は論理で話す。利三殿は遠慮がある。昌幸殿は笑いながら包んでくれる。しかし今の明智殿には、はっきり言う人間が必要だと思った」
「お前はそれが得意なのか」
「得意かどうかは知らない」政宗が少し間を置いた。「ただ、言わないで後で後悔するのが嫌いなだけだ」
俺は政宗を見た。この男と初めて向かい合ったのは、白装束で降伏してきた夜だ。あのときの静かな目が、今も変わっていない。
「ありがとう、政宗」と俺は言った。
「礼はいらない」政宗が立ち上がった。
「伝令を減らせ。任せた者を信じろ。明智殿がすべきことは、全体を見ることだ。細部は、それぞれの将に任せればいい」
それだけ言って、政宗は去った。廊下に足音が遠ざかっていく。俺は執務室に一人残った。山積みの書類を見た。
半分は、俺がやらなくていい仕事だった。利三に任せれば済む。
確認待ちの伝令の一覧を見た。半分は、答えを待たなくてもいい確認だった。各地の将が自分で判断できる。
北条への文を見た。家康が言った通り、三行で十分だった。俺はゆっくりと机を片付けた。
利三に任せる書類を分けた。各地への不要な確認伝令をキャンセルした。北条への文を清書して、使者に渡した。
気づけば、やることが三分の一になっていた。
翌朝、マップを開いた。武田信玄のマーカーが上野で静止している。北条のマーカーが小田原で固まっている。幸村のマーカーが下野で静かに光っている。忠勝のマーカーが磐城で動かない。
全員が、それぞれの場所で確かに動いている。俺が確認しなくても、全員が自分の仕事をしている。
当たり前のことだ。しかし焦りの中にいると、それが見えなくなる。
昼頃、半蔵が来た。
「北条からの使者が来ました」
俺は驚いた。「早い。まだ三日しか経っていない」
「内容をお伝えします」半蔵が静かに読み上げた。「北条氏政より。同盟の件、検討する。詳細を話し合いたい。使者を小田原に送られたい、と」
俺は少し固まった。返事が来た。しかも、前向きな返事だ。
「なぜ?」と俺は呟いた。
半蔵が答えた。「武田信玄が上野に入ったことで、北条も焦っているのかもしれません。秀吉からも圧力がかかっている。そこに明智殿からの同盟依頼が来た。選択肢として検討する価値があると判断したのでしょう」
家康が後ろから静かに言った。「時期が良かったです。三行の文で正解でした」
俺は政宗に礼を言いに行こうとして、やめた。
政宗は「礼はいらない」と言っていた。
代わりに、俺は窓の外を見た。下総の秋が始まっていた。田んぼが黄色く染まり始めている。収穫の季節が近い。民の顔が穏やかだ。
俺がバタバタしていた間も、この土地は確かに動いていた。五月蝿かったのは、俺だ。
深呼吸をして、GAMEを開いた。
【伊達政宗 忠誠100】
100。いつの間に最大値になっていた。俺は少し笑った。この男が最後の一つを渡したのは、きっと今夜だと思った。




