第十九章 武田が動く、焦りの下総攻め
常陸に移って、半月が過ぎた。
兵力の増強は着実に進んでいた。家康と利三が整えた徴兵の仕組みが、無理のない範囲で機能し始めている。農作業の合間に訓練を行い、秋の収穫に備えながら兵を育てる。
急がない。確実に。そう決めたはずだった。異変はマップから始まった。
ある朝、甲斐の武田信玄のマーカーを確認したとき、俺は目を疑った。
【武田信玄〔風林火山〕兵力三万二千】
移動中。いつもは甲斐で静止していたマーカーが、動いている。北東に向かっている。
俺は地図を広げた。武田信玄が北東に向かうとすれば、その先にあるのは上野か、信濃北部か、あるいは関東か。
「半蔵」と俺は呼んだ。
気配もなく現れた。
「武田が動いている。詳細を調べてくれ」
「既に動いています」と半蔵が答えた。
「三日前から信玄公の動きを追っています。報告が遅れて申し訳ありません」
「どこに向かっている」
「上野方面と見ます。関東への侵攻を準備しているようです」
俺は地図を見た。上野は、下野の西隣だ。武田信玄が上野に来れば、幸村の下野が挟み撃ちになる可能性がある。南から北条、西から武田。
胃が痛くなった。さらに追い打ちをかける報告が来た。半蔵が続けた。
「秀吉の件も報告します。東海道の固めが完了し、関東への圧力を強めています。北条への使者が二度目の交渉に入ったという情報があります」
「北条の返事は」
「まだ従属を拒否しています。しかし圧力が増している。北条が秀吉に従う可能性が、先月より上がっています」
俺は頭を抱えた。武田が動く。秀吉が北条に圧力をかける。二つの変数が同時に動き始めた。その夜、俺は一人でGAMEを見続けた。
【武田信玄〔風林火山〕三万二千】
この男が関東に入れば、状況が根本から変わる。武田と北条が関東で激突すれば、俺が動ける隙が生まれるかもしれない。しかし武田と北条が手を組めば、俺は東北に押し返される。
秀吉が関東に来れば、北条か武田かに関わらず、俺の関東攻略は終わる。つまり、今動かなければならない。しかし、家康たちは言った。急ぐな、と。俺は地図を指でなぞった。
常陸の南。
【下総 結城政勝 兵力八千】
結城政勝。前世の記憶を掘り起こす。下総の結城氏の当主。古くからの名門だが、この時代では北条の影響下にある。兵力は八千。GAMEのパラメータを確認した。
【結城政勝 武力40 統率65 知略42】
突出したパラメータはない。平均的な武将だ。手紙を送ったが返事がなかった四人のうちの一人。しかし今の情勢を考えると。
武田が上野に向かっている。秀吉が北条に圧力をかけている。この混乱の中で、結城政勝は北条に頼ることができない。北条自身が手一杯だからだ。
「今しかない」と俺は呟いた。
翌朝、俺は動くことを告げた。
「下総の結城政勝を攻める」
広間がまた静まり返った。
家康が口を開いた。「先日、急ぐなと申し上げたばかりですが」
「分かっている。しかし状況が変わった」俺は地図を広げた。「武田信玄が上野に向かっている。秀吉が北条に二度目の使者を送った。この二つが同時に動いている今、結城を放置すれば後で取りにくくなる」
「兵力は」と利三が聞いた。
俺は計算した。常陸に集まっている兵力は現在九千。佐竹義重の四千を守備に残し、動かせるのは五千だ。
結城の八千に対して、五千。また数で負ける。
「幸村に援軍を頼む。下野から二千借りる。合わせて七千で行く」
昌幸が口を開いた。「幸村殿の下野が、また薄くなりますな」
「四千九百残る。義重殿と連携すれば守れる」
「武田が上野から南下した場合、下野が危うい」
「だから早く動く。結城を素早く取って、幸村を補強する」俺は全員を見た。「急ぎすぎだと言われるのは分かっている。でも今回は本当に動かないといけない」
広間が沈黙した。家康が静かに目を閉じた。考えている顔だ。そして、目を開いて言った。「武田の動きは確かに無視できない。ただし一つ条件があります」
「何だ」
「結城攻略は素早く終わらせてください。長引けば武田と北条の動きに対応できなくなる」
「分かった。長引かせない」
昌幸が静かに言った。「では幸村殿への連絡を私が取ります」
半蔵に幸村への伝令を頼んだ。返事は半日で来た。幸村らしい短い言葉だった。
「二千送る。ただし早く終わらせろ。下野が薄くなる」
同じことを全員に言われている。俺は苦笑いしながら、出陣の準備を始めた。七千の兵を率いて、常陸を南下した。下総の国境まで二日の行程だ。進軍しながら、俺はマップを確認し続けた。
武田信玄のマーカーが上野に近づいている。北条のマーカーが小田原で固まっている。秀吉のマーカーが東海道でじっとしている。
全部が同時に動いている。まるでリアルタイムストラテジーゲームで、複数の脅威が同時に動くステージだ。前世のゲームでこういう場面は、一番ストレスがかかった。
しかし、ゲームと違うのは、ここに本物の人間がいることだ。二日後、下総の国境を越えた。結城政勝は、野戦を選んだ。
籠城する選択もあったはずだが、援軍が来ない状況では籠城は自滅に近い。野戦で一矢報いることを選んだのだろう。
マップ上で結城の八千が展開している。俺の七千と向かい合った。戦の前、俺は陣を確認した。幸村から借りた二千が右翼に入っている。常陸から連れてきた五千が中央と左翼を担う。
相手の武力は40。統率は62。突出した強さはない。しかし数で上回っている。地の利もある。
「《欺瞞》を使うか」と俺は自問した。
しかし、使わないことにした。結城政勝は手紙を送った相手だ。戦が終わった後に交渉の余地を残しておきたい。《欺瞞》で内部を引き裂けば、その後の関係が難しくなる。
「正面からいく」と俺は決めた。
戦が始まった。結城の八千が前進してくる。数で上回っているが、士気は高い。地元を守る意地がある。
俺は中央から全体を指揮した。右翼の幸村から借りた二千が、素早く動いた。幸村直属の精鋭だ。練度が高い。結城の左翼を崩し始めた。
中央では五千が押し合いになった。数はほぼ互角だが、こちらの練度がわずかに上回っている。じりじりと押し込んでいく。
結城政勝が自ら中央に出てきた。武力40だが、統率62の将が前に出ると兵の士気が変わる。一時的に、中央の押し合いが激しくなった。
しかし、右翼の崩れが広がった。幸村の精鋭が結城の左翼を完全に制圧し、そのまま後方に回り込んだ。
挟み撃ちの形になった。結城政勝が使者を送ってきたのは、戦が始まって四時間後だった。
「降伏します」
俺は少し驚いた。早い。思ったより早い。
使者が続けた。「ただし、明智殿に直接話がしたいと申しております」
また直接の交渉だ。安東愛季のときと似ている。
「会う」と俺は即答した。
結城政勝は、想像より老いた顔をしていた。五十代だろうか。疲れた目をしている。しかし目の奥に、まだ光がある。
「明智殿」と政勝が言った。「手紙を読んだ」
「返事はなかったが」
「返事ができなかった」政勝が静かに言った。「北条の目がある。明智殿に近づけば、北条に潰される。それが怖かった」
俺は頷いた。「今は北条が動けない」
「そうだ。だから降伏した」政勝が俺を見た。「明智殿は民を大切にすると聞いた。年貢を軽くすると聞いた。本当か」
「本当だ」
「下総の民を、守ってくれまするか」
「守る。約束する」
政勝が長い息を吐いた。
「……信じます」
しかし、仲間にはならなかった。政勝は降伏を認め、下総の統治を明智に委ねた。しかし自身は城を出て、隠居すると言った。
「戦う気力が、もうない」と政勝は静かに言った。「若い者に任せる」
仲間になってほしかった。しかし政勝の目を見て、俺は無理に引き留めなかった。
この人は、長い間戦い続けてきた人だ。疲れているなら、休ませてやりたい。
「分かりました」と俺は言った。「お疲れ様でした」
政勝が少し目を細めた。
「明智殿は、変わった武将だ」と政勝が言った。「そういう言葉をかける武将は、初めてだ」
下総を制した。しかし、俺に喜ぶ余裕はなかった。マップを確認した瞬間、血の気が引いた。
【武田信玄〔風林火山〕】上野に侵入。
来た。武田信玄が上野に入った。上野は下野の西隣だ。幸村まで、一国分しか離れていない。俺は即座に伝令を飛ばした。
「幸村に急報。武田が上野に入った。守りを固めろ」
しかし、伝令が出発した直後、半蔵が飛んできた。
「幸村殿からの急報です」
俺は文を引きったくるように受け取った。幸村の字で、短く書いてある。
「武田の動きは把握している。下野は守る。しかし援軍が必要になるかもしれない。急いでくれ」
幸村が「援軍が必要」と言った。
この男が援軍を求める言葉を書いた。俺は立ち上がった。
「全軍、常陸に戻る。急げ」
夜の行軍が始まった。七千の兵が、夜道を北に向かって走り始めた。マップの上で、武田信玄のマーカーが上野で大きく光っていた。
三万二千。幸村の四千九百に対して、三万二千。急がなければならない。今度ばかりは、急がなければならない。しかし、走りながら俺は家康の言葉を思い出した。
「急ぐほど、判断が狂う」
走りながら、深呼吸をした。走る。しかし焦らない。この矛盾を抱えたまま、俺は夜の道を北に向かった。




