第十八章 焦りと、仲間たちの諫言
下野に幸村を配置してから三日後。
俺は磐城の執務室で、マップを睨み続けていた。夜中の三つ時だ。利三がとっくに寝るように言っていたが、眠れなかった。マップを開くたびに、新しい不安が生まれる。閉じれば閉じたで、見えない脅威が怖くなる。
どちらにしても、眠れない。問題を整理した。幸村が下野で六千九百と共に孤立している。北条が動けば、幸村が最初に飲み込まれる。
秀吉の使者が北条に向かっている。北条が秀吉に従えば、関東全体が秀吉の色に染まる。そうなれば東北も時間の問題だ。
やることは一つだ。常陸に兵を集めて、関東攻略の足がかりを作る。幸村の下野と常陸を繋げて、北条への圧力を維持する。
問題は速度だ。どれだけ早く、どれだけ多くの兵を常陸に集められるか。俺の頭の中で、数字が回り続けていた。
翌朝、俺は全員に告げた。
「二つ決めた」
広間が静まった。
「一つ。磐城の守りを本多忠勝に任せる。忠勝、頼む」
忠勝が無言で頷いた。
「二つ。俺は常陸に移動する。常陸を拠点に兵力を集める。できる限り早く、できる限り多く」
利三が慎重な顔で聞いた。「どのくらいの規模を想定しておられますか」
「一ヶ月で一万五千まで増やしたい」
広間が静まり返った。今度の静まり方は、いつもと違った。賛同の沈黙ではない。困惑の沈黙だ。
最初に口を開いたのは家康だった。
「十兵衛様」と家康が静かに言った。「一ヶ月で一万五千は、無理です」
「無理じゃない。東北の人口は増えている。兵を集める基盤はある」
「基盤があることと、一ヶ月で集まることは別です」家康が落ち着いた声で続けた。「急いで集めれば、練度が低い兵ばかりになる。練度が低い兵は、戦場で足手まといになるだけではない。逃げる。崩れる。最悪、味方を巻き込んで敗走する」
俺は反論しようとした。しかし、家康が続けた。
「さらに問題があります。一ヶ月で大量の兵を集めるには、各地から強引に徴兵するしかない。そうすれば農作業の人手が減る。秋の収穫に影響が出る。民の生活が苦しくなれば、明智様への信頼が揺らぐ」
俺は黙った。家康の言葉は正確だった。感情ではなく、数字と論理で俺の計画の穴を突いてきた。
次に昌幸が口を開いた。
「十兵衛様、一つ聞いてもよろしいか」
「何だ」
「焦っておられますな」昌幸が穏やかに、しかし真剣な目で言った。「何が怖いのですか」
俺は少し驚いた。
「幸村が孤立している」と俺は答えた。
「北条が動く前に、関東の足がかりを固めたい。秀吉が北条と繋がる前に」
「それは分かります」昌幸が頷いた。「しかし焦りは判断を狂わせます。私は長年、信玄公の下で戦ってきた。信玄公がよく言っておられた。『急ぐほど、遅くなる』と」
武田信玄の言葉か。俺は黙って聞いた。
「急いで集めた烏合の衆で北条と戦えば、負けます」昌幸が静かに続けた。「負ければ幸村殿も孤立したままになる。急がば回れ。時間をかけて質の高い兵を集める方が、最終的に幸村殿を助けることになります」
利三が続けた。「十兵衛様、もう一つ申し上げます」
「言ってくれ」
「上杉謙信公の件です」
俺は少し身を固くした。
「謙信との同盟は続いている。しかし」
「しかし、いつまでも続く保証はない」利三が静かに言った。「謙信公は義の人。もし明智様の動きを、民を傷つけるものと判断されたら、同盟を破棄される可能性があります」
「民を傷つける気はない」
「急いで強引に徴兵すれば、傷つけることになります」利三が真剣な目で俺を見た。「農民を無理やり兵にすれば、その家族は食えなくなる。それが民を傷つけることです。謙信公がそれを知れば、黙っていない」
俺は利三を見た。この男が強く諫言するのは珍しい。それだけ本気で心配しているということだ。
そして、これは予想外だったが政宗が口を開いた。「明智殿」
「何だ、政宗」
「俺も反対だ」政宗が珍しく、はっきりと言った。
「お前が反対するのか」と俺は少し驚いて言った。
「急いで弱い軍を作るくらいなら、強い軍を作るために時間をかけた方がいい」政宗が静かに続けた。
「俺は北条と長年向き合ってきた。あの家の強さは城だけじゃない。関東の民の支持だ。北条は民政が上手い。正攻法で短期間に崩せる相手じゃない」政宗は語り終えた。
「では時間をかけろと」
「そうだ」政宗が俺を真っ直ぐ見た。「明智殿が東北でやってきたことを、関東でもやればいい。民を大切にする。年貢を軽くする。戦を少なくする。その評判が関東に広まれば、北条から民が離れる。それが本当の北条攻略だ」
広間が静かになった。俺は全員を見回した。家康、昌幸、利三、政宗。全員が反対している。全員が心配している。俺は深呼吸をした。正直に言えば、悔しかった。
焦りを指摘されたことが、ではない。全員の言葉が正しいと分かっているから、悔しかった。
「……分かった」と俺は言った。
広間が少し和んだ。
「急ぎすぎていた。認める」俺は頭を掻いた。「幸村が孤立しているのが、怖くて仕方なかった。それだけだ」
家康が静かに言った。「幸村殿への信頼が、焦りになっている。それは悪いことではありません。しかしその信頼は、急ぐことより正しく動くことで報いるべきです」
「そうだな」俺は頷いた。「時間をかける。ただし確実に動く」
「それでよろしいかと」
方針を変えた。常陸への移動は予定通り行う。しかし兵力の増強は、無理のない範囲で行う。一ヶ月で一万五千ではなく、三ヶ月で一万二千を目標にした。
集める兵は農作業の合間に訓練する。秋の収穫が終わってから本格的に動員する。民への負担を最小限にしながら、着実に積み上げる。
幸村への連絡網を半蔵が強化した。下野と常陸の間に、忍びの伝達ルートを複数作った。そしてもう一つ。上杉謙信への対応だ。
「磐城の守りについて確認したい」と俺は忠勝に言った。
二人で話すことにした。
「謙信が同盟を破棄した場合、最初に危険になるのは羽前だ。西から謙信が来れば、羽前が最前線になる」
忠勝が頷いた。「昌幸殿に連絡しておく」
「磐城は南からの脅威に備えてくれ。北条、あるいは秀吉が来たとき、最初の防衛線になる」
「分かった」忠勝が静かに言った。「ただし一つ聞いていいか」
「何だ」
「謙信公が裏切ると思っているか」
俺は少し考えた。
「思っていない。謙信は義の人だ。理由なく同盟を破棄しない。しかし、備えは必要だ。備えがあることと、疑うことは違う」
忠勝が静かに頷いた。「分かった。備える。しかし謙信公を疑う準備はしない」
「それでいい」
忠勝らしい言葉だと思った。この男は白黒はっきりしている。備えはする。しかし不必要に疑わない。
翌日、俺は常陸に向けて出発した。磐城の城門で、忠勝が見送った。
「忠勝」と俺は言った。「磐城を頼む。お前がいれば、南からの脅威は怖くない」
忠勝が短く答えた。「任せろ」
それだけだった。しかし、その二文字に全ての覚悟が入っていた。
【本多忠勝 忠誠100】
この男が磐城にいる。それだけで、俺の背中が少し軽くなった。常陸への道を進みながら、俺はマップを確認した。各地のマーカーが光っている。
磐城に忠勝。羽前に昌幸。下野に幸村。常陸に佐竹義重。海路に安東愛季。情報網に半蔵。政務に利三と家康。
全員が持ち場で動いている。
俺が焦って一人で抱え込もうとしていた問題を、全員が分担して支えている。
「俺は恵まれている」と俺は呟いた。
誰も聞いていない。しかし、本当にそう思った。常陸に着いたのは、三日後だった。佐竹義重が出迎えた。
「来ましたか」と義重が言った。相変わらず、無駄のない言葉だ。
「常陸をしばらく借りる」と俺は言った。「迷惑をかける」
「構いませぬ」義重が静かに言った。「ここが東北と関東の繋ぎ目になるなら、俺が守りまする」
俺は義重を見た。〔鬼義重〕の目だ。恐れを知らない、真っ直ぐな目だ。
「ありがとう」と俺は言った。
義重が短く頷いた。夜、俺は常陸の城でマップを開いた。三ヶ月で一万二千。焦らない。急がない。しかし確実に積み上げる。
幸村が下野で待っている。忠勝が磐城で守っている。全員が、それぞれの場所で動いている。俺がすべきことは、焦ることではない。正しく動くことだ。
マップの関東が、夜の闇の中で静かに光っていた。秀吉のマーカーが、また少し東に動いていた。時間はない。
しかし、急いでもいけない。この矛盾の中で、俺は答えを探し続けた。




