第十七章 下野攻略、幸村の快勝と孤独な守り
常陸を制してから十日が過ぎた。
磐城の本陣で、俺はまたマップと格闘していた。関東の色分けを確認する。常陸が明智の色になった。しかしその周囲は、まだ他の大名の色が並んでいる。
北条が南から圧力をかけている。秀吉の使者が北条に向かっているという報告は、まだ続いている。北条の返事が出る前に、俺が動かなければならない。
マップを北から南に辿った。常陸の西隣。
【下野 宇都宮広綱 兵力七千】
下野。関東の北部、常陸の西に位置する国だ。ここを取れば、常陸と合わせて関東北東部を固められる。北条への圧力をかける足がかりになる。秀吉が東に来たときの防衛線にもなる。
地政学的に、次に取るべき場所はここしかない。宇都宮広綱。前世の記憶を掘り起こす。下野の名門、宇都宮氏の当主だ。北条と上杉の間で巧みに立ち回り、独立を保ってきた外交上手な人物。しかし武力的には突出していない。
マップのパラメータを確認した。
【宇都宮広綱 武力45 統率60 知略60 外交89】
外交が高い。安東愛季と似たタイプだ。
武力は低い。統率は中程度。正面からぶつかれば、兵力差がなくても勝てる可能性が高い。問題は兵力だ。俺の現在の総兵力を計算した。
磐城本拠に一万二千。常陸の守りに佐竹義重と四千。羽前、羽後、陸奥、陸中、陸前の守りに昌幸たちと一万。動かせる兵力は、多くない。
利三が報告書を持ってきた。「下野攻略に回せる兵力は、最大で七千です。それ以上出すと、磐城の守りが薄くなりすぎます」
「七千か」と俺は呟いた。
宇都宮の七千と、ほぼ同数だ。数が同じなら、将の質で勝負が決まる。誰を送るか。俺は三日間悩んだ。
忠勝は磐城に必要だ。秀吉の使者が北条に向かっている今、本拠の守りを忠勝なしにするわけにはいかない。
佐竹義重は常陸に配置したばかりで、まだ根を張っていない。政宗は磐城南部の防衛線を担っている。家康は全体の政務と後方支援で手が離せない。
消去法で考えると、一人の名前が残った。いや、消去法ではない。この仕事に最も相応しい男が、一人いる。
「幸村」と俺は呼んだ。
真田幸村が俺の前に座った。
「下野の宇都宮広綱を頼みたい」と俺は言った。「兵力は六千九百。宇都宮の七千とほぼ同数だ」
幸村が静かに聞いた。「俺一人でやるのか」
「そうだ。忠勝は磐城に残す必要がある」
幸村が少し間を置いた。
「分かった」
あっさりした返事だった。
「不満はないか」と俺は聞いた。
「ない」幸村が真っ直ぐ俺を見た。「俺一人で取れる相手なら、俺一人で取る。それだけだ」
「取れるか」
「取る」
幸村の目に迷いはなかった。
俺は頷いた。「下野を取った後は、そのまま守備に入ってほしい。六千九百のままで、下野を守る」
幸村が少し目を細めた。「常陸の義重殿と連携できるか」
「半蔵に連絡網を作らせる」
「分かった」
それだけで、全ての話が終わった。この男との会話はいつも短い。しかし短い言葉の中に、全てが入っている。
出発の前夜、俺と幸村は城の縁側で並んで座った。月が出ていた。夏の終わりの月だ。
「幸村」と俺は言った。
「何だ」
「信濃で初めて会ったとき、お前は俺を睨んでいたな」
幸村が少し間を置いた。「覚えているか」
「忘れられるか」と俺は笑った。「あの目は怖かった」
「《欺瞞》で父上との間を引き裂かれた。怒って当然だ」
「そうだな」俺は月を見た。「あのときから、ずいぶん遠くまで来た」
幸村が静かに言った。「京から東北まで、よく逃げ続けた」
「逃げてばかりだ、俺は」
「逃げることは恥ではない」幸村が短く言った。「守るために逃げた。生き残るために逃げた。その結果がここだ」
俺は幸村を見た。
「ありがとう、幸村」
幸村が月を見たまま答えた。「礼はまだ早い。下野を取ってからにしろ」
俺は笑った。
翌朝、真田幸村が六千九百の兵を率いて西に向かった。出発の朝、忠勝が幸村の隣に立って短く言った。「生きて戻れ」
幸村が「当然だ」と答えた。
この二人の会話は、いつもこれくらい短い。しかしその短さの中に、二年以上共に戦ってきた信頼がある。
俺は城門から幸村の背中を見送った。下野への進軍は三日かかった。幸村からの最初の報告が届いた。
「下野の国境を越えました。宇都宮の前衛と小競り合いあり。本格的な衝突は明日になりそうです」
俺はマップを確認した。幸村のマーカーが着実に西に進んでいる。宇都宮のマーカーが、迎撃の準備を整え始めた。
決戦は、下野の中央平野で起きた。
宇都宮広綱は最初、籠城を選ぶかと思われた。外交が得意な男だ。正面からの戦いより、時間を稼いで援軍を待つ方が合理的だ。
しかし、広綱は野戦を選んだ。理由は後で分かった。半蔵の報告によれば、広綱は北条に援軍を要請していた。
しかし、北条からの返事は“今は動けない”というものだった。秀吉の使者が来ている今、北条は外交に集中しており、下野に兵を送る余裕がなかった。
援軍が来ない。籠城しても意味がない。
だから野戦を選んだ。外交の男が、最後に戦いを選んだ。幸村は正面から行った。
策を使わなかった。《欺瞞》も、迂回も、地形の利用もない。ただ、正面から真っ直ぐに。幸村の六千九百が、宇都宮の七千にぶつかった。
数は互角。しかし、質が違いすぎた。宇都宮の兵は決して弱くない。しかし、幸村という男が前線にいる。武力100が、六千九百の士気を別次元に引き上げていた。
幸村が中央を割った。宇都宮の陣形が左右に分断された。右翼が崩れ、左翼が孤立した。広綱自身が必死に立て直そうとしたが、武力45では、武力100の幸村を止められない。
昼前に始まった戦が、昼過ぎには決していた。快勝だった。しかし、宇都宮広綱は降伏しなかった。逃げた。
少数の手勢を連れて、南の北条領に向かって走った。外交が得意な男らしい逃げ方だ。北条に駆け込んで、何かを交渉するつもりかもしれない。幸村からの報告が届いた。
「下野攻略完了。宇都宮広綱、南方へ逃走。追跡困難。下野の城に入ります」
俺は報告を読んで、少し考えた。また当主に逃げられた。しかし今回は少し意味が違う気がする。広綱が北条に駆け込んだことで、北条に下野陥落の情報が確実に届く。
北条が動くかもしれない。時間がさらに短くなった。幸村が下野の城に入ったという報告の翌日、俺は配置の確認をした。
下野に幸村、六千九百。常陸に佐竹義重、四千。磐城本拠に忠勝と俺、一万二千。東北六ヶ国に昌幸たち、一万。合計、三万近く。
しかし、下野の幸村は孤立している。常陸の義重とは半蔵の連絡網で繋がっているが、距離がある。北条が本気で動けば、六千九百では守りきれない。
利三が心配そうに言った。「幸村殿、大丈夫でしょうか。北条の本軍が来れば」
「幸村は大丈夫だ」と俺は言った。「ただし、早く次を動かす必要がある」
「次というのは」
「下野を孤立させないために、周囲を固める。宇都宮氏への手紙に返事をしなかった残りの豪族たち。今度は手紙ではなく、直接動く」
俺はマップを見た。下野の南。関東の各豪族が並んでいる。里見氏、結城氏。手紙を無視した連中だ。
しかし、佐竹義重が言っていた。「手紙を読んでいた。返事をしなかっただけで」
彼らも読んでいるかもしれない。
その夜、半蔵が緊急の報告を持ってきた。
「幸村殿から伝言です」
「何だ」
半蔵が静かに読み上げた。
「下野は静かだ。兵の練度を上げながら守りを固めている。心配するな。ただし早く次を動かせ。俺を孤立させるな。以上」
俺は思わず笑った。幸村らしい。心配するなと言いながら、早く動けと言う。
「分かった」と俺は呟いた。「孤立させない。絶対に」
マップの下野に、幸村の小さなマーカーが光っている。六千九百で、一人で守っている。
俺は机に向かった。次の手を、考え始めた。




