第01話:音のない地獄で、氷の騎士団長は愛のために散る
痛い。暗い。苦しい。
過酷な拷問の果てに、私の喉は潰され、両耳は完全に機能を失っていた。
優しい言葉も、鳥のさえずりも、もう二度と聞こえない、完全な無音の世界。
けれど、いつからか。
物理的な耳が聞こえなくなった代償のように、私の脳内には他人の心から漏れ出す「悪意」だけが直接響くようになっていた。
(さっさと死ねばいいのに。気味が悪い)
(いつまで生かしておくんだ、このゴミを)
そして今日、私は陽の光の下へ引きずり出された。
王都の中央広場。そびえ立つ断頭台の上。
冷たい大斧が首筋に当てられた瞬間、私の世界を埋め尽くしたのは、群衆の醜く、どす黒い悪意の轟音だった。
視界の端で、華やかなドレスに身を包んだ大臣の娘が、扇で口元を隠して笑っている。
『……わたくしの犯した罪、すべて持って逝ってちょうだい。今日から貴女は、極悪非道の悪役令嬢エリスよ。……うふふ、最高の『み・が・わ・り』。本当に感謝いたしますわ』
おぞましい優越感と歓喜の思念が、脳を直接焼く。
真実を知りながら、私はこのまま理不尽な悪意に押し潰されて死ぬのだ。
涙だけが頬を伝い落ちた、その時だった。
ドンッ!! と、広場の入り口が大きく弾け飛ぶような振動が、足の裏から伝わってきた。
見開かれた私の視界の先に、血まみれの銀の鎧をまとった青年が立っていた。
私の幼馴染であり、この国で最も恐れられる『氷の騎士団長』、ギルバート。
無数の兵士たちに囲まれながらも、彼は鬼神のごとき形相で剣を振るい、一直線に私のもとへ突き進んでくる。
その銀の鎧は、かつて彼が王宮を守るために授かった、誇り高き騎士団長の証。
それを自らの血で汚し、彼は守るべきはずの法を切り裂いて私だけを見つめていた。
彼の口が大きく開き、血を吐くように叫んでいるのが見えた。
――『……………………………………』
私には聞こえない。
一番聞きたい彼の声は届かないのに、代わりに私の脳を焼いたのは、処刑を見届けていた財務大臣たちの、醜い悪意の轟音だった。
(あの鬼神は、この女を人質にでもしなければ止められん!)
彼らの薄汚い心の声を通して、私はようやく、ギルが全てを知り、私のために戦っているのだと理解した。
とうとう大臣の目の前まで詰め寄ったギルバートに対し、大臣の醜悪な念が響く。
(何とか、あの剣を捨てさせねば。剣をっ!)
大臣の指示を受けた処刑人の大斧が、私の首筋にゆっくりと当てられた。
ギルバートの動きが、ピタリと止まった。
王国最強と謳われた男が、ただ一人の女を救うためだけに、血濡れた剣を乾いた石畳へと投げ捨てる。
(馬鹿めぇっ!)
無抵抗になった彼に大量の兵士たちが一斉に群がり、無数の刃が彼の身体を容赦なく切り刻んでいく。
ついにギルバートの身体が私の目の前で崩れ落ちた。
血に染まった彼の手が、私へと向けられる。彼の唇が最期に微かに動く。
――『……………………………………』
何も、聞こえない。
悪意しか拾えない私の呪われた『耳』では、彼が命と地位を引き換えに残してくれた優しい言葉すら、ただの一文字も聞き取れない。
彼から伝わっていた温かい『静寂』が、ふっと途切れる。
それを跨ぐようにして、処刑人が私を見下ろし、大斧を振り上げる。
(手間をかけさせおって! さっさとやれ)
振り下ろされる刃の冷たい感触と共に、私の地獄のような人生は、ようやく終わりを告げた。
……はずだった。
◇ ◇ ◇
「……はっ!?」
ガバッと私は顔を上げた。
視界がぐらりと揺れ、喉の奥からヒューヒューと引きつった息が漏れる。
「エリス嬢? どうかなさいましたか?」
――あ。
声が出せる。耳から、「音」も聞こえた。
話し声。グラスの触れ合う音。優雅なワルツの調べ。
狂ったように自分の耳と喉をまさぐり、ここが処刑される1年ほど前に開かれた、王宮の夜会であることに気づく。
時が、戻ったのだ。
私は地獄から生還した。そう安堵して泣き崩れそうになった、次の瞬間。
(貧乏くさいドレス。視界に入るだけで不愉快だわ)
(あの女、いつか痛い目を見せて泣かせてやりたいな)
ズキリ、と脳の奥が焼けるように痛んだ。
物理的な音を取り戻したにも関わらず、あの地下牢で使えるようになった力『悪意を聞き取る能力』は、そのまま私の中に残っていた。
痛い。うるさい。息ができない。
壁際にうずくまり頭を抱えた私を、喧騒をかき分けるようにして力強い腕が抱き起こした。
「エリス……!! 無事だったか!」
見上げると、そこには血の通った、温かく美しいギルバートの姿があった。
私は弾かれたように彼の胸に飛び込む。彼は私の背中に腕を回し、骨が軋むほどの力で抱きしめ返してきた。
その腕の力強さと、彼の心から伝わる、どす黒い殺意すら呑み込んだような『底知れぬ静寂』。
ああ、間違いない。彼も覚えているのだ。
あの処刑場を。私のために剣を捨て、共に死んでくれたあの記憶を。
「大丈夫だ。あれはただの『悪い夢』だ。俺がそう決めた」
私の耳元で囁く彼の声は、ひどく甘く、そして狂気を孕んでいた。
「もう誰にも君を傷つけさせたりしない。今度こそ、俺がこの手で全てを終わらせて、君を守ってみせる」
私のために命を捨ててくれた彼。その深い恩義に報いなければならない。
そう決意したはずなのに、その恐ろしいほどの執着心に、私は本能的な粟立ちを止められなかった。
彼の狂気を、私の献身で包み込むように握りしめた、その時。
華やかな広間の中心から、第二王子のレオン殿下が真っ直ぐにこちらへ向かって歩いてきた。
「やあ、エリス嬢。相変わらず目つきが鋭いですね。そんな顔で騎士団長に泣きつくとは、見苦しい。何があったのかは興味もありませんが」
彼は美しい顔立ちで、さらりとそんな暴言を吐いた。
周囲の令嬢たちがクスクス笑う声が聞こえた。
(……変ね)
これほどはっきりと悪口を言われているのに。
彼からは、何も聞こえないのだ。彼の心の中だけが、澄み切った湖面のように、不自然なほど静まり返っている。その心地よい優しい静寂に、私は思わず深く息を吐いた。
「エリス」
ギルバートがそっと私の顔を完全に隠すようにマントで包み込んだ。
「レオン殿下。彼女は体調が優れないのです。お戯れはお控えいただきたい」
「ふん。泣いていたから、ただ笑いに来ただけだろうが」
レオン殿下は吐き捨てるようにそう言い残し、踵を返した。
私はマントの隙間から、遠ざかる彼の背中を追う。振り返った彼の瞳が、ほんの一瞬だけ、泣き出しそうに苦痛に歪んでいたように見えたのは、気のせいだろうか。
「さあ、ここを出よう」
ギルバートに促され、広間を後にする。
その声は優しかったが、彼が私を抱き寄せる腕の力は、逃げ出すことを許さないほどに強かった。
まるで私を外界から完全に隔離しようとするかのような、重く、甘い束縛。
この人は私を救ってくれた。でも、どうしてだろう。
彼の狂信的な静寂の中にいるはずなのに、背筋が微かに粟立つのを感じていた。
それとは対極にある、先ほどの王子の矛盾だらけの不気味な静寂の方が、私の心を不思議と落ち着かせていたのだ。
◇ ◇ ◇
【ギルバート視点】
数刻後。
夜会からエリスを送り届けたその足で、俺は王都の暗がりを急ぎ進む豪奢な馬車の屋根に降り立った。
音もなく窓枠にぶら下がり、中にいる豚――財務大臣へと声をかける。
「大臣、こんな夜更けにどこへお出かけなのかな?」
「ギ……ギルバート騎士団長!? なんだっ!」
月明かりの下、俺の顔を見て悲鳴を上げる大臣を冷徹に見下ろし、一切の感情を排した声で静かに告げる。
「剣を捨てた武人との約束を反故にしたのだ――死をもって償っていただく」
銀の閃きが夜の闇を切り裂き、短い断末魔が夜風に溶けた。
無惨に命を刈り取られた大臣の骸を一瞥し、俺は血振るいをして剣を鞘に収める。
「ひぃぃっ……!」
御者台で腰を抜かし、ガチガチと震える男の足元へ、ギルバートは無造作に重々しい革袋を放り投げた。
じゃらり、と金貨の鳴る鈍い音が響く。
「拾って忘れろ。誰かに一言でも喋れば、次はお前を殺す」
「は、はいぃぃぃっ!」
逃げるように走り去っていく馬車を背に、暗殺者のように冷酷な瞳が、王城の尖塔を見上げる。
「第一王子と、お前の娘……真の元凶を玉座から引きずり下ろすのは、これほど単純な盤面にはならないだろうが」
「エリスにまとわりつく虫は、俺が歴史ごとすべて焼き尽くす」
狂気すら孕んだ呪火の愛を血濡れた唇からこぼし、彼は再び夜の闇へと姿を消した。
処刑の間際から、エリスの運命は一変しました。
ギルバートの歪んだ愛と、レオン王子の不可解な静寂。
地獄を越えた先に待つ、新たな因縁から目が離せません。
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