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第4話「妊娠中で精神的に不安定な時期」

登場人物

社員 黒田翔

愛人 白川玲奈

社員A

社員B



最近、社内の空気が妙に重い。

忙しいからでも、寒いからでもない。


理由は、だいたい皆わかっていた。


ある日の午後。

役員会議室のドアが、少しだけ開いていた。


黒田翔の声が、珍しく抑えきれずに漏れてくる。


「最近、色々ありまして……」

「昨日も、白川さんが家から出ていってしまって」

「妊娠中で、ストレスが溜まっているみたいなんです」


“家から出ていった”。


その言い回しが、妙に具体的で、

妙に私的だった。


「ですから、この件については——」


翔は、役員に口を出した。

業務とは関係のないはずの話を、

“会社の事情”として。


会議室の前を通った社員Bは、

歩幅をほんの少しだけ早めた。


聞いてはいけない。

でも、聞こえてしまう。


それがこの会社の日常だ。


——そして、夕方。


十七時三十分。


社長室のドアが開き、

黒田翔と白川玲奈が、いつものように出てくる。


社長「お疲れ様です。戸締り、お願いします」


玲奈は、何も言わず、

社長の半歩後ろを歩いていた。


二人は、また早退した。


誰も止めない。

誰も驚かない。


驚く段階は、もう過ぎている。


残された社員たちは、

自然と声を潜めた。


「ね、ね、聞きました?」


社員Aが、段ボールを畳みながら言う。


「玲奈さん、今妊娠してる子……

 翔の子じゃないかもしれないって噂」


「えっ、マジで?」


社員Bが顔を上げる。


「ちょっと待って。出産予定、今年の七月ですよね?」


「そうそう。で、逆算すると……」


Aは、指を折る。


「十月頃になるじゃないですか」


「十月……」


Bの表情が、止まる。


「あれ、その頃って、

 翔、香港行ってなかったでしたっけ?」


「行ってましたよ」

「しかも、結構長めに」


一瞬、沈黙。


その沈黙が、

否定ではないことだけは、はっきりしていた。


「でねでね、ここからが本題なんですけど……」


Aは声を落とす。


「十月のある日、

 白川さんが、別の男と

 ラブホに入るのを見た人がいるらしくて」


「えぇぇ……?」


Bが、乾いた声を出す。


「それは、一気にきな臭くなってきましたね」


「で、その男、

 昔の知り合いらしいよ」


「うっそ〜」


誰かが、苦笑した。


誰も、「そんな噂やめよう」とは言わなかった。


誰も、「真相」を確かめようとはしなかった。


そもそも、この会社では、

裏切りが一度始まると、

それは特別なことではなくなる。


誰かが踏み越えた線は、

次の誰かにとって、ただの目印になる。


黒田翼が失ったものが、

信用なのか、家庭なのか、

それとも順番なのか。


もう、誰も気にしていなかった。

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