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番外「愛人さんの登場」

登場人物

社長:黒田 翔

愛人:白川 玲奈

社員A

社員B



黒田翔が家業を継いだ日を境に、

会社は静かに、しかし確実に壊れていった。


先代の名前が外れ、

ドアのプレートが新しくなった。

本来なら、それだけで済むはずだった。


だが現実は違った。


営業は去り、経理は辞め、

現場を支えていた人間ほど、早く会社を見限った。


有能な人間ほど、去るのが早い。

「ここ、もう持たない」

その一言が、合言葉のように広がっていった。


会議は形だけになり、

報告は曖昧になり、

責任だけが宙に浮いたまま、誰も拾わない。


決定打になったのは、財務だった。


金を握っていた人間が、

ある日突然、姿を消した。


帳簿は途中で止まり、

数字は噛み合わず、

口座には、説明のつかない空白だけが残った。


——巻いて逃げた。


誰も口にしなかったが、

全員が、そう理解していた。


その後始末を引き受けたのが、黒田翼だった。


夜になっても消えない社長室の灯り。

徹夜明けなのか、帰っていないだけなのか、

朝出社しているのかさえ、誰にも分からない。


そして、そんなある日。

彼は、まるで天気の話でもするかのように言った。


「来月、彼女が入社するんだ」


その一言で、

社内の時間が一拍、止まった。


「前は美容業界にいたんだけど、今は辞めててさ。

 家でYouTube見ながら簿記を勉強してる。

 毎日、結構真面目に」


——彼女。


その単語だけで、

全員が同じものを思い浮かべたのが分かった。


休憩室。


「……離婚したの?」

社員Aが、紙コップを指で潰しながら聞いた。


「いや。まだ」

社員Bはスマホから目を離さない。

「離婚調停中」


「最低やな」


誰も否定しなかった。


2024年11月。

愛人が——いや、「彼女」が入社した。


朝礼。

白いブラウスに、少しだけ緊張した笑顔。


「白川玲奈です。よろしくお願いします」


声は意外なほど落ち着いていた。

深く頭を下げる仕草も、堂々としている。


空気が、わずかにざわつく。


「……あの人、自分が愛人だって知ってるのかな」

社員Aが、小声で囁く。


「知ってるでしょ」

社員Bは即答した。

「知らないわけない」


玲奈は、その視線に気づかないふりをして席に着く。

ノートを開き、丁寧な字でメモを取り始めた。


簿記の用語。

仕訳。

勘定科目。


——本気だ。


それだけは、誰の目にも明らかだった。


黒田翔は、彼女を見なかった。

正確には、見ないようにしていた。


彼が早退する理由が、

また一つ増えるのは時間の問題だ。


けれどその日、

社内で一番真剣に働いていたのは、

間違いなく——彼女だった。


そして誰も気づかないまま、

この会社は、

もう元には戻らない形で、静かに動き始めていた。

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