第9話「市役所」
朝から雨が続いていた。
強くはないが、止む気配もない。
駅から会社までの道は、いつもより静かだった。
傘の音だけが、一定の間隔で続いている。
今日は、あまり行きたくなかった。
理由は特にない。
ただ、そういう日だった。
ビルの階段を上がる途中で、部長とすれ違った。
下りてくるところだった。
「おはようございます」
声をかけると、部長は少しだけ足を止めた。
「おはよう。会社、まだ開いてないんだ。鍵を取りに行くところ」
一瞬、意味が分からなかった。
「……社長と白川さん、いつも一番早く来て開けてますよね」
部長は肩をすくめた。
「今日は白川さん、有休らしい」
「じゃあ、社長は?」
「さあ。連絡はない」
それ以上、会話は続かなかった。
部長はそのまま階段を下りていった。
連絡がないのは、珍しいことではなかった。
むしろ、いつも通りだった。
しばらくして、部長が戻ってきて、会社の扉を開けた。
電気をつけ、パソコンを立ち上げる。
誰もいないオフィスは、少しだけ広く見えた。
いつものように、最初にスケジュールを確認する。
社長の予定は、簡潔だった。
——9:00〜11:00 市役所
白川さんの予定も、同じ時間、同じ場所だった。
それだけだった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
画面を見たまま、各自がそれぞれに理解した。
昨日のことを思い出す。
退勤前、白川さんが社長室の前で立っていた。
何かの書類を手にして、少しだけ声を強めていた。
「まだ一枚足りないです。これ、二部必要なので」
社長は中で何かを探している様子だった。
プリンターの音が、何度か続いた。
そのときは、それ以上気にしなかった。
今朝の予定表と、うまくつながった。
「……そういうことか」
誰かが小さく言った。
誰もそれを受けなかった。
雨は、まだ続いていた。
昼前になっても、二人は戻らなかった。
連絡もなかった。
特に問題はなかった。
仕事はいつも通り進んでいた。
昼休み、誰かが窓の外を見ていた。
道路の向こうに、市役所の建物が見えるわけではない。
それでも、同じ方向だった。
午後も、静かに過ぎていった。
十六時半。
その時間になっても、誰も立ち上がらなかった。
「戸締りをお願いします」と言う人が、いなかったからだった。
少しして、部長が立ち上がった。
「今日は、自分がやります」
それだけ言って、鍵を手に取った。
誰も異論はなかった。
社長のスケジュールは、
——9:00〜11:00 市役所
更新は、されていなかった。
日付だけが、画面に残っていた。
それが、二人にとって意味のある日であることは、
誰も言わなかったが、消えずに残っていた。




