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EP97.かつての婚約者

国境の交易地その入口には旅装を整えた一人の男が馬から降り立っていた。


 潮風に混じって遠くの市場から香ばしいパンの匂いが漂ってくる。荷馬車の車輪が石畳を鳴らす音と商人たちの威勢の良い掛け声が絶え間なく響いていた。


 金の髪を短く整えたその男は懐かしむように辺りを見渡している。かつての鋭さを残しつつもその目にはどこか穏やかな光が宿っていた。第二王子ユリウスだった。


 「お久しぶりです殿下」


 声をかけたのは見張り役の巡回中だったセーラだった。ユリウスは少し驚いたように振り返った。


 「そなたは確か」


 「セーラです。前にお会いしましたよね」


 「ああ。随分立派になったな」


 その言葉にセーラは照れくさそうに笑った。


   ◇ ◇ ◇


 辺境伯館を訪れたユリウスをアズマリアとヴィルヘルムが出迎えた。


 「突然の訪問失礼する」


 「いいえ。よくいらっしゃいました」


 アズマリアの穏やかな応対にユリウスは少し戸惑ったような表情を見せた。


 「今日は視察の名目で来た。だが本当の目的は」


 彼は静かに続けた。


 「あの日お前が選んだ道がどんな結果を生んだのか。この目で確かめたかった」


 その言葉にアズマリアは静かに頷いた。


 「ぜひご覧になってください」


   ◇ ◇ ◇


 辺境を案内する道すがらユリウスは目にする光景の一つ一つに驚きを隠せずにいた。


 水路のほとりで遊ぶ人間と魔族の子供たち。学び舎から聞こえる賑やかな声。交易地で活気づく市場。


 「これほどとは思わなかった」


 その呟きにヴィルヘルムが静かに答えた。


 「一人の力じゃない。ここに集まった皆で作り上げたものだ」


 学び舎を訪れると教壇に立つセーラの姿があった。人間の子と魔族の子が並んで座る教室の様子にユリウスはしばらく言葉を失っていた。


 「俺が王都で当たり前だと思っていた世界の狭さを思い知らされる」


 その呟きにアズマリアは静かに応じた。


 「誰も悪気があったわけではないと思います。ただ知る機会がなかっただけです」


   ◇ ◇ ◇


 夕暮れ水路のほとりでユリウスはアズマリアに向き合った。


 「一つ聞きたい。お前は俺を恨んでいないのか」


 その問いにアズマリアはしばらく考えてから答えた。


 「恨みが全くないと言えば嘘になります。でも」


 彼女は静かに続けた。


 「あの婚約破棄がなければ私はきっと今の場所には辿り着けませんでした。皮肉ですがそう思います」


 その答えにユリウスは深く目を伏せた。


 「俺はあの時お前の何も見ていなかった」


 「でも今は」


 アズマリアの言葉にユリウスは顔を上げた。


 「今はこうして確かめに来てくださいました。それだけで十分だと思います」


 その言葉にユリウスの表情が少しだけ和らいだ。


   ◇ ◇ ◇


 辞去する前ユリウスはヴィルヘルムに向き直った。


 「彼女を大切にしてくれ」


 「言われるまでもない」


 ヴィルヘルムの即答にユリウスは小さく笑った。


 「良い返事だ」


 馬に跨がり去っていくユリウスの背中を見送りながらアズマリアは静かな感慨を覚えていた。


 過去の傷は完全には消えない。でもその傷と向き合い少しずつでも前へ進もうとする姿には確かな尊さがある。


 「王都に帰ったら何をするおつもりでしょうか」


 アズマリアの呟きにヴィルヘルムが答えた。


 「さあな。だが少なくとも今日見たものを忘れはしないだろう」


 夕暮れの光が辺境の街並みを金色に染めていた。この土地が紡いできた物語がまた一人の心に確かな種を蒔いていた。


 その種がこれからどのように芽吹いていくのか。その答えはまだ王都の日々が静かに語っていくことだろう。

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