EP92.継ぐ者の修行
王都大神殿の大広間には朝の澄んだ光が満ちていた。
高い天井から吊るされた燭台の炎はまだ消されておらず蝋の溶ける甘い匂いが微かに漂っている。石床を歩く神官たちの足音が静かに反響していた。
その中央でエレオノーラは分厚い書物を前に難しい顔をして座っていた。真紅の髪は無造作に一つに結ばれ金色の瞳はいつになく真剣な光を宿している。
「――ここの祝詞の意味がどうしても分からない」
傍らに立つグレゴリウスが穏やかに答えた。
「ゆっくりで構いません。神殿の儀礼は暗記するだけでは意味を持ちません。その根底にある祈りの心を理解することが大切なのです」
「祈りの心か」
エレオノーラは少し考え込んだあとぽつりと呟いた。
「あたし今まで炎で戦うことしか考えてこなかったから。祈るって何だか難しいな」
「アズマリア殿はいかがでしたか」
その問いにエレオノーラは目を見開いた。
「アズマリアはずっと祈ってたよね。毎晩聖樹の前で」
「はい。理由も知らされないまま十八年間欠かさず。……あの純粋な祈りこそが実はこの国の根を支えていたのです」
グレゴリウスの声に深い自責の念が滲んだ。エレオノーラは静かに彼の言葉を受け止めていた。
◇ ◇ ◇
その日の午後エレオノーラは王都の下町を訪れていた。大神官候補としてまず民の暮らしを知りたいという彼女自身の希望だった。
「――聖女様だ!」
子供たちが駆け寄ってくる。エレオノーラは腰を落として明るく笑いかけた。
「こんにちは。今日はちょっとお散歩に来たの」
通りには焼きたてのパンの香りが漂い露店の呼び声が賑やかに響いている。エレオノーラはその一つ一つに耳を傾けながらゆっくりと歩いていった。
「――大神官になるって本当ですか」
一人の老婆が声をかけてきた。エレオノーラは少し照れくさそうに頷いた。
「うん。まだ決まったわけじゃないけど頑張ってみようと思ってる」
「あなた様の炎は戦いのためだけじゃなく冬の寒さを和らげてくれました。復興の間中ずっと。……あれは温かかったです」
その言葉にエレオノーラの胸に温かいものが込み上げた。
「――そっか。あたしの炎そんな風にも役に立ってたんだ」
「もちろんですとも」
老婆の優しい微笑みにエレオノーラは深く頷いた。
◇ ◇ ◇
夕刻神殿に戻ったエレオノーラは中庭で一人夕焼けを眺めていた。そこへアロセールが静かに歩み寄ってきた。
「――悩んでいるのか」
「うん。自信ないんだ。大神官なんてあたしに務まるのかなって」
「誰にでも最初は自信などない」
アロセールは長い金の髪を風に揺らしながら静かに続けた。
「だが一人で抱え込む必要はない。私もリザもいる。それにアズマリアも」
「――そうだよね」
エレオノーラは小さく笑った。
「あたしたち皆で支え合うって決めたんだもんね」
「ああ」
夕焼けの空に一番星が瞬き始めていた。二人はしばらく無言のままその光を見つめていた。
◇ ◇ ◇
その夜辺境伯館では帰宅したアズマリアがヴィルヘルムにエレオノーラの様子を語っていた。
「エレオノーラ様随分悩んでおられるそうです」
「無理もないさ。急に大きな責任を負うことになったんだから」
ヴィルヘルムは静かに答えた。
「あんたも似たような経験をしてきたんだろう」
「はい。……でも私には支えてくれる人たちがいました。エレオノーラ様にもきっと同じように」
その言葉にヴィルヘルムは頷いた。
「今度は俺たちがその支えになる番だな」
窓の外には辺境の静かな夜が広がっていた。遠く離れた王都で新しい時代の担い手が着実に歩みを進めている。
エレオノーラが大神官としてどのような神殿を築いていくのか。その答えはこれからの日々が丁寧に描いていくことだろう。




