EP90.新しい命
深夜の辺境伯館産室には暖炉の炎が赤々と燃えていた。
湯気の立つ鍋から清潔な布の匂いが漂い窓の外では冷たい夜風が木々を揺らす音が響いている。
「――もう少しです、アズマリア様!」
産婆の声に励まされながらアズマリアは渾身の力を込めた。廊下ではヴィルヘルムが落ち着かない様子で待ち続けている。
「――今度も、待つしかないのか」
「そういうものです」
傍らのハロルドが静かに答えた。前回と同じやり取りにヴィルヘルムは苦笑した。
「――お前は、変わらないな」
「変わる必要が、ありませんので」
そのやり取りの直後室内から小さな泣き声が響き渡った。
「――生まれました! 元気な男の子です!」
産婆の弾んだ声にヴィルヘルムは弾かれたように立ち上がった。
産室に入ると産婆が丁寧に清めた赤子をアズマリアの胸元にそっと預けていた。
「――こんにちは」
アズマリアの震える声に小さな瞼がわずかに動いた。
ヴィルヘルムがその小さな手にそっと触れると赤子は柔らかな声で泣いた。
「――男の子、か」
「はい。……私たちの、息子です」
その言葉にヴィルヘルムの目に涙が滲んだ。
「――名前は」
アズマリアの問いにヴィルヘルムはしばらく考え込んだ。
「――ノアハルト、というのは、どうだろう」
「――どういう意味ですか」
「――安らぎを運ぶ者、という、古い言葉だ。……エリアーナが光を紡ぐ者なら、この子には、安らぎを届ける役目を」
その説明にアズマリアは静かに頷いた。
「――素敵な名前です。ノアハルト」
翌朝この知らせを聞いたエリアーナが息を切らして駆けつけた。
「――弟、生まれたの!?」
「ええ。ご挨拶しますか」
小さな弟を覗き込んだエリアーナは目を輝かせた。
「――ちっちゃい……! あたし、絶対、良いお姉ちゃんになる!」
その宣言に居合わせた人々から温かい笑いが起きた。
その日の午後ゲイルとナディアも治療院を訪れ新しい命の誕生を祝った。
「――おめでとうございます」
ナディアの丁寧な祝辞にゲイルも続いた。
「――良かったな、エリアーナ」
「うん! ありがとう!」
その様子を見守りながらセーラが静かに呟いた。
「――この子も、きっと、たくさんの人に、愛されて育っていくんですね」
その言葉にアズマリアは深く頷いた。
夜が更け静まり返った産室で赤子の寝顔を見つめながらアズマリアは静かにこれまでの日々を振り返っていた。
王都で過ごした孤独な十八年間。追放という絶望。辺境での出会いと再生。そして今この小さな命が二人目として確かにここに存在している。
「――この子にも、いつか、伝えたいですね」
「何を」
ヴィルヘルムの問いにアズマリアは静かに答えた。
「――価値とは、誰かと比べて決まるものではない、ということを」
その言葉はエリアーナに伝えたのと同じ、しかし何度でも確かめたい、この家族の指針だった。
窓の外夜明けの気配が静かに近づいていた。新しい命の誕生を祝うように東の空が淡い橙色に染まり始めている。
辺境エルグラードに加わったこの新しい光もまたこれからの物語に確かな温もりを添えていくことだろう。




