Ep09. 刻まれた名
辺境伯家の書庫は、館の地下深くにあった。
石段を降りるたびに、空気はひんやりと湿り気を帯びていく。壁に並ぶ燭台の炎が揺れるたび、無数に積まれた書物の影が、ゆらゆらと壁に伸び縮みした。古い紙とインク、そして黴の匂いが混じり合った、独特の空気。踏み込むたびに床板が軋み、その音が石造りの空間にやけに大きく響く。
その書庫の中央、埃を払われた木机の上に、拳ほどの大きさの石片が置かれていた。
「これが、畑から出てきた石か」
アズマリアが覗き込むと、石の表面には、見たこともない文字が刻まれているのが分かった。渦を巻くような線と、幾何学的な模様が組み合わさった、異様な意匠。触れると、指先にほんの微かな痺れのようなものが伝わってくる。
「三日前、あんたが再生させた畑の土中から、農夫が偶然掘り当てたそうだ」
ヴィルヘルムは石片を手に取り、燭台の灯りに翳しながら答えた。焦げ茶の髪の隙間から覗く横顔には、隠しきれない緊張が滲んでいる。
「文字が浮かび上がったのは、あんたが力を使ってから、だそうだな」
「私が、これを」
「ああ。おそらく、あんたの力に反応して、封じられていた術式が目を覚ましたんだろう」
◇ ◇ ◇
書庫の奥から、埃をかぶった一冊の古書を抱えて現れたのは、辺境伯家に代々仕える老司書、フェリクスだった。腰の曲がった痩身に、分厚い眼鏡。この土地に長く伝わる資料の管理を、もう四十年近く任されているという。
「ヴィルヘルム様。……ようやく、見つけました」
その声には、抑えきれない興奮が滲んでいた。フェリクスは震える手で、古書のページを開く。黄ばんだ紙面に、石片と同じ文字紋様が描かれていた。
「これは、失われた神代文字――《根源語》と呼ばれるものです。今ではもう、読み解ける者はほとんどおりません」
「読めるのか、あんたは」
「ほんの一部だけなら。……この一文だけ、辛うじて」
フェリクスは眼鏡を押し上げ、ゆっくりと読み上げた。
「――《神癒とは、傷を癒やす力にあらず。世界を、あるべき姿へ戻す力なり》」
その一言が、静まり返った書庫に、静かに、しかし確かな重みをもって響いた。
◇ ◇ ◇
「《神癒》……」
アズマリアはその言葉を、声に出さず、ただ口の中で繰り返した。物心ついた頃から、ずっと自分の肩書きとして与えられてきた言葉。だがそれは、ただの称号の一部に過ぎないと、これまでずっと思い込んでいた。
「先日教えていただいた、あの神代の奇跡と、同じものでしょうか」
「間違いない。……あんたの肩書きにある《神癒》という言葉、あれはただの美称なんかじゃなかった、ということだ」
ヴィルヘルムは石片を机に置き、腕を組んだ。
「回復魔法の系譜にすら数えられない、まったく別の術式体系だ。生体術式でも、属性魔法でもない。……対象そのものの『あるべき姿』、いわば根源の設計図そのものへ働きかける力」
フェリクスが、震える声で付け加える。
「千年以上前、まだ神々がこの地にいたとされる時代――世界そのものが傷を負ったとき、それを癒やすために顕現した奇跡だと、断片的な記録には残っております。しかし、その術者がどうなったのか、なぜ失われたのか……そこから先は、どの資料にも記されておりません」
その言葉に、アズマリアの背筋を、名状しがたい寒気が微かに撫でた。
◇ ◇ ◇
「もし、あんたの力が本当にその《神癒》だとしたら」
ヴィルヘルムが、慎重に言葉を選びながら続けた。
「王都が『役立たず』と切り捨てた力は、実際には、王国そのものが手放してはならなかったものだった、ということになる」
「……そんな」
アズマリアは思わず自分の両手を見下ろした。この手が、王国にとってそれほどの意味を持つ力だったなど、これまで一度も考えたことがなかった。
「大げさな話をするつもりはない。だが、少なくとも辺境にとっては、もう十分すぎるほどの意味を持っている」
ヴィルヘルムはそう言うと、真剣な眼差しでアズマリアを見た。
「この石片のことは、しばらく他言無用にしておこう。まだ確証と呼べる段階じゃない。……だが、あんたには知っておいてほしかった」
「ありがとうございます、ヴィルヘルム」
名前を呼ぶ声に、以前より少しだけ自然な響きが混じっていることに、アズマリア自身、まだ気づいていなかった。
◇ ◇ ◇
書庫を出た後、フェリクスは古書を大切そうに抱えながら、ぽつりと呟いた。
「聖女様――いえ、アズマリア様。ひとつ、老いぼれの戯言だと思って聞いていただけますかな」
「はい、何でしょう」
「その石片に刻まれていた文字は、まだ半分も解読できておりません。……ですが、末尾に一つだけ、気になる一節がございました」
フェリクスは眼鏡の奥の目を細め、遠くを見るように続けた。
「《根は、都にあり》――そう読めるのです。何を指す言葉かは、まだ私にも分かりませんが」
その一節は、深く考える間もなく流れていった。だが、この時アズマリアの胸の奥に落ちた小さな違和感は、やがて彼女自身の運命と、王国そのものの命運を結びつける、重要な糸口となる。
◇ ◇ ◇
その夜、館を出たアズマリアは、澄み渡った夜空を見上げながら、深く息を吐いた。
自分がずっと背負ってきた《神癒》という肩書きに、初めて意味が宿った。ただそれだけのことなのに、これまで積み重なってきた「役立たず」という評価の全てが、静かに揺らいでいくのを感じる。
喜びと呼ぶには、まだ早すぎるかもしれない。だが、確かに何かが、自分の中で変わり始めていた。
◇ ◇ ◇
そして、その頃――辺境の外れに続く街道に、これまで見たことのない一台の荷馬車が、土埃を上げながら近づいていた。
噂を聞きつけ、遠方からこの土地を訪れようとする、最初の旅商人だった。
病を癒やす土地。作物が枯れない土地。噂はすでに、辺境という小さな領地の枠を超え、街道を伝って外の世界へと広がり始めていた。
アズマリアがまだ知らないその足音は、確実に、この静かな辺境の日々を次の局面へと運ぼうとしていた。




