Ep08. 大地の記憶
村外れの畑は、朝靄の底に沈んでいた。
地平線まで続くはずのその土地は、見渡す限りひび割れ、灰色に近い土の色を晒している。もとは麦畑だったという話だが、今となってはその面影を探すことすら難しい。踏み込むたびに、乾いた土がぱきりと音を立てて崩れ、細かな埃が舞い上がって鼻の奥をちりちりと刺した。風が吹くと、枯れた麦の残骸が擦れ合い、骨が軋むような乾いた音を立てる。遠くの木立からは、朝を告げる鳥の声が届いていたが、この畑の中だけは、その明るさから切り離されたように静まり返っていた。
アズマリアは畑の中央に立ち、その荒涼とした光景を見渡していた。白銀の髪が朝風に揺れ、赤い瞳がゆっくりと地面へ落ちていく。
「――ここが、あの人以外の対象として調べたい場所ですか」
「ああ」
隣に立つヴィルヘルムが、地図に描き込んだ印と、実際の畑とを見比べながら頷いた。焦げ茶の髪は今日も無造作に流され、鍛え上げられた腕には、昨夜遅くまで書物を漁っていた疲れが色濃く滲んでいる。それでも、その眼差しだけは、いつになく強い光を宿していた。
「三年前、飢饉が始まった年に見捨てられた畑だ。……もう誰も、ここに種を蒔こうとはしない」
◇ ◇ ◇
「試しに、祈ってみてくれないか」
ヴィルヘルムの言葉に、アズマリアは静かに膝をつき、両手をひび割れた土へと押し当てた。冷たく、乾いた感触が、指先から伝わってくる。人の肌とはまるで違う、命の気配のない手触りだった。
「――どうか、傷ついたものが、癒えますように」
いつもと同じ祈りの言葉を、土へ向けて紡ぐ。手のひらから溢れた光が、地中深くへとゆっくり染み込んでいった。
最初は、何も起きなかった。ヴィルヘルムが息を詰めて見守る中、数十秒という時間が、やけに長く感じられる。
だが、やがて――
ひび割れた土の表面から、緑の芽が、次々と顔を出し始めた。
◇ ◇ ◇
「……っ、噓、だろ」
ヴィルヘルムの声が震えていた。芽は見る間に育ち、茎を伸ばし、穂をつける。まるで、数か月分の生育過程を早送りで見せられているかのようだった。土の匂いが、乾いた埃の匂いから、青々とした草の匂いへと変わっていく。
夕暮れ時には、荒れ果てていたはずの畑が、黄金色に輝く麦畑へと姿を変えていた。風が吹くたび、穂が波のようにうねり、さわさわと涼やかな音を立てる。その光景を、アズマリアは呆然と見つめていた。自分がしたこととは、にわかには信じがたかった。
「これは……回復魔法じゃない」
ヴィルヘルムが、麦の穂に触れながら呟いた。その声には、隠しきれない興奮と、同時に、何かへの畏れが滲んでいた。
◇ ◇ ◇
その夜、ヴィルヘルムの館の書斎に、二人は再び向き合っていた。積み上げられた古い書物が、蝋燭の灯りに淡く照らされている。
「王国で使われている回復魔法は、基本的に対象の生体術式――肉体に刻まれた、いわば設計図のようなものを読み取って再構築する術式だ。だが生体術式は、生物にしか存在しない。土や水にそんなものはないはずだ」
ヴィルヘルムは机の上に一冊の古書を広げた。ページの端は黄ばみ、インクの一部は掠れて読めなくなっている。
「にもかかわらず、あんたの力は、生体術式を持たないはずの土にまで作用した。……つまり、あんたが読み取って再構築しているのは、生体術式そのものじゃない」
「では、何を」
「もっと根源的な何か、としか、今は言いようがない」
アズマリアは自分の手のひらを見つめた。傷を治す。それだけの力だと、十八年間信じ込まされてきた。だがこの手のひらは、荒れた大地に、命そのものを呼び戻してみせた。
「私も、自分の力が植物にまで作用するなど、今の今まで知りませんでした。人以外に使ったことすら、一度もありませんでしたから」
「王都では、そんな試みすら許されなかった、ということか」
「はい。……治療係に、余計な実験は不要だと」
ヴィルヘルムの眉が、微かに険しくなった。何かを堪えるような、短い沈黙が落ちる。
「もったいない話だ。あんたほどの魔力残滓の少なさは、詠唱破棄を多用する治癒術師としては異常な高効率を意味する。それを、実験の一つも許さず、ただ酷使するだけしていたとはな」
「魔力残滓が、少ないのですか」
「普通、詠唱破棄を使えば使うほど、術式の余剰分――魔力残滓が体内に蓄積して術者を蝕んでいく。だがあんたは、これだけの規模の術式を連発していながら、疲労の色すらほとんど見せない。おそらく、あんたの力は最初から、無駄のない根源術式として組まれているんだろう」
難解な理屈の羅列だったが、アズマリアにはその一言一言が、これまでの自分を否定する何よりの証拠のように聞こえた。
◇ ◇ ◇
書斎を出た帰り道、夜風に当たりながら、アズマリアはふと足を止めた。
「――ヴィルヘルム様」
「様はいらない、と前にも言ったはずだが」
「……ヴィルヘルム」
名前だけで呼ぶことに、まだ慣れない違和感を覚えながら、アズマリアは続けた。
「どうして、そこまで私の力を知ろうとしてくださるのですか」
ヴィルヘルムは足を止め、しばらく夜空を見上げていた。星々が、この辺境の澄んだ空気の中で、痛いほど鮮明に瞬いている。
「単純な理由だ。あんたの力が本物なら、この土地を――いや、この土地に生きる人間たちを、これ以上失わずに済むかもしれない」
「それだけ、ですか」
「……いや」
ヴィルヘルムは少し言葉を選ぶように黙り込んだあと、静かに続けた。
「王国が見捨てたものを、俺は見捨てたくない。それが、土地であれ、人であれ――あんたであれ」
その言葉に、アズマリアの胸の奥が、じんと熱を持った。何と返せばいいのか分からず、ただ小さく頷くことしかできなかった。
◇ ◇ ◇
その頃、麦畑の片隅――誰の目にも留まらない場所で、小さな異変が起きていた。
風に揺れる麦穂の隙間、土の奥深くに埋もれていた古い石片が、アズマリアの力が染み込んだことをきっかけに、微かな光を帯び始めていたのだ。
それは、かつてこの土地に刻まれていたという、失われた古代文字の欠片だった。
誰も、まだその存在に気づいていない。
だがその石片は、やがてこの辺境の歴史そのものを――そして、アズマリアの力の正体を解き明かす、重要な鍵のひとつとなる。
◇ ◇ ◇
夜も更け、静まり返った治療院の一室で、アズマリアは日誌代わりの手帳を開いた。
『本日、荒れ地の再生を確認。人以外への作用、実証される』
几帳面な文字でそう書き記しながら、彼女はふと筆を止めた。
王都で過ごした十八年間、この手は「役立たず」の証明としてしか扱われなかった。だが辺境に来てからのわずか数十日で、その手は、枯れた大地を蘇らせ、絶望に沈んでいた人々に笑顔を取り戻させている。
――この力は、いったい何のためにあるのだろう。
その問いへの答えは、まだ遠い。だが、答えに近づくたび、アズマリアの中で何かが静かに組み変わっていくのを、彼女自身、はっきりと感じ始めていた。
そしてこの夜からしばらくして、辺境の噂は、王都からも見過ごせない規模にまで膨れ上がっていくことになる。




