Ep07. 小さな手
治療院の朝は、鶏の鳴き声と共に始まる。
アズマリアが薬草を煮出す鍋をかき混ぜていると、勢いよく扉が開いた。
「聖女様、おはようございます!」
飛び込んできたのは、まだ十三歳ほどの少女だった。太陽に焼けた頬に、そばかすが散っている。栗色の髪をひとつに結び、動くたびにその毛先が跳ねる。名をセーラといい、最初にアズマリアが熱を癒やしたあの少女だった。あれから毎朝欠かさず、治療院の手伝いに顔を出すようになっていた。
「おはようございます、セーラ。今日も早いですね」
「だって、お姉ちゃんの手伝い、楽しいんだもん!」
セーラはそう言って、慣れた手つきで薬草の束を棚に並べ始めた。ほんの十日前まで、頬がこけ、目の下に濃い隈を作っていた少女とは思えないほど、その動きには生気が満ちていた。
「お姉ちゃん、はやめてください。私はまだ、あなたの……」
「お姉ちゃんはお姉ちゃんだもん! 聖女様、なんて呼びにくいし」
悪びれもせずそう言い切るセーラに、アズマリアは思わず苦笑した。王都では誰も、自分をそんな風には呼ばなかった。役立たず、無駄遣い、厄介者――そういった言葉ばかりが、自分の呼び名として与えられてきた。
「お姉ちゃん」
その響きが、思いのほか、自分の中にすとんと収まることに、アズマリアは静かに驚いていた。
◇ ◇ ◇
その日の昼過ぎ、治療院に厳めしい顔つきの中年男が姿を現した。
鎧を身に纏い、頬には深い刀傷が一筋走っている。歴戦の気配を隠しきれない、鍛え上げられた体軀。辺境騎士団副団長、ハロルドだった。
「聖女殿とやらの顔を、一度拝んでおこうと思ってな」
その声には、隠しきれない警戒の色があった。無理もない、とアズマリアは思う。王国の聖女という肩書きに、この辺境の人間が良い印象を持っていないことは、これまでの数日で嫌というほど理解していた。
「アズマリアと申します。……以前は、という枕詞が必要かもしれませんが」
「噂は聞いている。花を咲かせただの、井戸を澄ませただの。……にわかには信じがたい話だ」
ハロルドの目は、値踏みするような鋭さを湛えていた。アズマリアは静かにその視線を受け止める。値踏みされることには、慣れていた。
「信じていただく必要はありません。ただ、私にできることをするだけです」
その返答に、ハロルドは少し意外そうに眉を上げた。
◇ ◇ ◇
ちょうどそこへ、運ばれてきた急患があった。見回り中に足を滑らせ、崖から転落したという若い兵士だった。右足首が不自然な角度に折れ曲がり、顔は苦痛に歪んでいる。
「――失礼します」
アズマリアは即座に膝をつき、両手をかざした。淡い光が足首を包み込む。骨が軋みながら正しい位置へと戻っていく音が、微かに響いた。
「ぁ、あ……痛みが……」
兵士の顔から、みるみるうちに苦悶の色が引いていく。ハロルドはその一部始終を、腕を組んだまま、瞬きもせずに見つめていた。
治療を終えたアズマリアが手を離すと、寝台の傍ら――そこにもまた、小さな白い花が一輪、ひっそりと咲いていた。
「……本当に、咲くのか」
ハロルドの声から、先ほどまでの棘が消えていた。代わりにあったのは、隠しきれない驚きだった。
◇ ◇ ◇
夕暮れ、治療院の外でハロルドがアズマリアに声をかけてきた。
「――さっきは、悪かったな。疑うような目で見て」
「いえ。当然のことです。私は、この土地の人間からすれば、見知らぬ余所者ですから」
「余所者、か」
ハロルドは少し考えるように黙り込んだあと、ぽつりと言った。
「この土地で三年、俺たちは黒霧の森と飢饉に、ずっと負け続けてきた。……正直、もう希望なんてもんは、とうに捨てていた」
その声には、これまでの苦労が滲んでいた。
「だが、あんたが来てからの十日で、村の空気が変わった。子供らが笑うようになった。……それだけで、俺には十分すぎるほどの証明だ」
ぶっきらぼうな言い方だったが、そこに込められた誠実さは、アズマリアにもはっきりと伝わってきた。
◇ ◇ ◇
その夜、ヴィルヘルムの館の一室では、灯りが遅くまで点り続けていた。
積み上げられた古い書物の山に囲まれ、ヴィルヘルムはページをめくり続けている。アズマリアが差し入れの茶を運ぶと、彼は疲れた様子で目頭を揉んだ。
「進み具合は、いかがですか」
「……正直、芳しくない。回復魔法に関する文献はいくらでもあるが、花が咲くだの水が澄むだの、そんな現象に触れたものは、今のところ一つも見つからない」
ヴィルヘルムは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「だが、確信はある。これは、俺たちが知っている『回復魔法』の枠組みでは説明がつかない何かだ」
その言葉に、アズマリアの胸の奥が、小さく疼いた。
自分の力の正体を、これほど真剣に知ろうとしてくれる人間に出会ったのは、生まれて初めてのことだった。
「もう少し、範囲を広げて調べてみる。……あんたにも、確かめてほしいことがある」
「確かめてほしいこと、ですか」
ヴィルヘルムはまっすぐにアズマリアを見た。
「あんたの力が、人以外にも作用するのか。……もし本当にそうなら、それが何を意味するのか、俺たちはまだ、何一つ分かっていない」
窓の外、夜風に揺れる木々の葉擦れの音を聞きながら、アズマリアは静かに頷いた。
――自分でも知らない、自分の力。
その答えに、一歩ずつ近づいていく予感が、この夜、確かに芽生え始めていた。




