Ep06. 花咲く傷
治療院、というにはあまりに簡素な建物だった。
元は物資倉庫だったという石造りの棟に、寝台代わりの藁束が並べられている。屋根板の隙間から朝の光が幾筋も差し込み、埃の粒子をきらきらと照らし出していた。薬草を煮出す匂いと、古い木材の匂い、そしてかすかに残る土の匂いが混じり合い、この土地そのものの気配を思わせる。
アズマリアがここで働き始めて、十日が経っていた。
「――次、こちらへ」
声をかけると、腕に深い切り傷を負った青年が、少し戸惑いながら寝台へ横たわる。魔物避けの見回り中、藪の中で刃物のように鋭い枝に切り裂かれたのだという。
「失礼します」
傷口に両手をかざし、詠唱を紡ぐ。淡い光が滲み出し、裂けた皮膚が糸を引くように閉じていく。ここまでは、王都でも辺境でも変わらない、いつもの光景のはずだった。
だが。
「――あ」
治療を終えた青年の腕のすぐ傍ら、寝台に敷かれた藁の上に、小さな白い花が数輪、忽然と咲いていた。
◇ ◇ ◇
「花……?」
アズマリアは自分の手のひらと、青年の腕とを、何度も見比べた。困惑しているのは彼女自身も同じだった。これまで、こんなことは一度もなかった。
「なんだこりゃ……傷が治っただけじゃなくて、花まで咲くのか」
青年は呆然とした様子で、腕に咲いた花を指先でつついた。花弁は本物だった。柔らかく、確かな重みと香りを持つ、正真正銘の花。
治療院に居合わせた他の患者たちも、その光景に集まってきて、口々にざわめき始めた。
「聖女様の力って、こんなものなのか……?」
「見たことねえ。回復魔法って、こんなに綺麗なもんだったか」
どよめきの中心で、アズマリア自身が誰よりも戸惑っていた。王都で十八年、毎日のように傷を癒やしてきた。だが、花が咲いたことなど、一度としてなかったはずだった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、治療院を訪れたヴィルヘルムが、開口一番に切り出した。
「聞いたぞ。花が咲いたそうだな」
噂の伝わる速さに、アズマリアは思わず苦笑した。この程度の広さの土地では、どんな出来事もすぐに知れ渡ってしまうらしい。
「はい。……正直、私にも何が起きたのか」
ヴィルヘルムはしばらく黙って、青年の腕――今はもう傷跡すら残さず綺麗に治っている――と、その傍らで萎れかけている花とを、交互に観察していた。
「他にも、妙な話を耳にした」
「妙な話、ですか」
「先週あんたが治療した爺さんが、その足で古井戸に水を汲みに行った。……あの井戸は、他に水源がなく、腹を壊すと分かっていても仕方なく飲むしかなかったほど濁った水だったんだが」
ヴィルヘルムは腕を組み、少し声を落とした。
「その日を境に、水が急に澄み始めたそうだ。今では誰もが競って汲みに来るほどだと」
偶然だと思っていた。だが、花と、水と、二つ重なれば、それはもう偶然と呼ぶには無理がある。
◇ ◇ ◇
「あんたの力について、少し調べてみてもいいか」
ヴィルヘルムの申し出に、アズマリアは戸惑いながらも頷いた。
「私は構いませんが……何か、心当たりが」
「いや、まだ何も。辺境伯家に伝わる古い蔵書の中に、何か手がかりがあるかもしれない、というだけの話だ」
ヴィルヘルムはそう言うと、いつになく真剣な眼差しで、アズマリアの手のひらへ視線を落とした。ついさっきまで、花を咲かせていた、その何の変哲もない手のひらへ。
「王都の連中は、あんたの力を『役立たず』と切り捨てたそうだな」
「……はい」
「だが、俺の目には、そうは見えない。むしろ――」
言いかけて、ヴィルヘルムは口を噤んだ。まだ確証のないことを、軽々しく口にすべきではないと判断したのだろう。その慎重さもまた、彼らしいと、アズマリアは思った。
◇ ◇ ◇
その夜も、治療院の裏手には、咲いたばかりの白い花が一輪、静かに残っていた。
アズマリアはその花にそっと触れながら、自分の中に生まれた小さな戸惑いを、そのまま持て余していた。
王都では、自分の力は「傷を治すことしかできない」ものだった。その評価に、疑問すら持ったことはなかった。だがここに来て、初めて――自分の力が、何か知らないものを孕んでいるのではないかという予感が、静かに芽生え始めていた。
答えはまだ、どこにもない。
だが、その答えを探そうとする人間が、今、隣にいる。それだけで、アズマリアの胸の内には、これまで感じたことのない温かさが灯っていた。




