Ep05. 死の辺境
馬車が最後の峠を越えたとき、アズマリアは思わず息を呑んだ。
王都から半月。石畳の道はとうに途絶え、轍だけが目印の荒れた街道を、馬車は幾度も揺れながら進んできた。木々は次第にまばらになり、やがて視界を覆っていた深い森が唐突に途切れると、その先に広がっていたのは――荒野だった。
地平線まで続くはずの畑には、ひび割れた土が剥き出しになっている。ところどころに残る作物は、根元から黒く枯れ、まるで炭化したかのような姿で立ち尽くしていた。風が吹くたび、乾いた土埃が舞い上がり、喉の奥にざらついた感触を残す。空気そのものが、どこか饐えたような匂いを孕んでいた。飢えた大地の匂い、とでも呼ぶべきだろうか。
遠くに見える村落からは、煙ひとつ立ち上っていない。炊事の煙すら、ここでは贅沢なものらしかった。
「……ここが」
「辺境伯領、エルグラードです」
御者が短く答えた。半月ぶりに聞く、彼の肉声だった。その声にすら、隠しきれない重さが滲んでいる。
◇ ◇ ◇
村の中に入ると、荒野以上の光景がアズマリアを待っていた。
崩れかけた家々の軒先で、痩せ細った子供たちがうずくまっている。その肋骨が服の上からでも数えられるほどだった。乾いた咳の音があちこちから響き、澱んだ井戸端には、傷だらけの体を引きずるようにして水を汲む老人の姿があった。
「……っ」
思わず馬車を降り、駆け寄る。地面に座り込んでいた少女――十歳にも満たないだろう――が、熱に浮かされたような虚ろな目でアズマリアを見上げた。
「大丈夫、今、楽にしますから」
膝をつき、両手を少女の額にかざす。詠唱を紡ぐより先に、体が勝手に動いていた。淡い光が滲み出し、少女の熱を吸い取るように染み込んでいく。荒かった呼吸が、少しずつ穏やかなものに変わっていった。
「あ……」
少女がうっすらと目を開ける。その瞳に映る自分の姿を見て、アズマリアは奇妙な感覚に包まれた。ここには、「役立たず」と嘲る声がない。「戦力にならない」と値踏みする視線がない。ただ、救われたことへの、純粋な驚きだけがあった。
◇ ◇ ◇
その光景に気づいた村人たちが、次第に集まってくる。誰もが最初は警戒の目でアズマリアを見ていたが、少女の顔色が見る間に良くなっていくのを目にすると、その表情は驚きへ、そして縋るような懇願へと変わっていった。
「お、お願いします……! うちの子も、うちの婆さんも……!」
「順番にお願いします。……大丈夫、皆さん、必ず診ますから」
気がつけば、アズマリアは日が暮れるまで、村の広場で治療を続けていた。傷を癒やし、熱を下げ、飢えで弱った体に活力を戻す。詠唱破棄で次々と処置していくその様子に、いつしか村人たちのざわめきは、感謝の言葉へと変わっていた。
その騒ぎを聞きつけて駆けつけたのは、泥だらけの外套をまとった若い男だった。
◇ ◇ ◇
「――何事だ」
低く、よく通る声だった。振り返ったアズマリアの目に映ったのは、長身の青年だった。焦げ茶の髪は乱れ、頬には泥と土埃がこびりついている。それでも隠しきれない、鍛え上げられた体軀と、まっすぐにこちらを射抜く鋭い眼光。腰に佩いた剣の柄も、日々の実戦で使い込まれた様子が窺えた。
村人の一人が慌てて駆け寄る。
「ヴィルヘルム様! この方が、あっという間に子供たちを……!」
ヴィルヘルムと呼ばれた青年の目が、初めてまっすぐにアズマリアを見た。値踏みするような視線ではない。むしろそこにあったのは、警戒と、それに勝る純粋な驚きだった。
「その術式は……回復魔法、それも尋常な威力じゃない。あんたは何者だ」
アズマリアは一瞬、名乗るべきか迷った。「聖女」という肩書きは、もう自分のものではない。だが、嘘をつく理由もなかった。
「アズマリアと申します。……以前は、王都で聖女をしておりました」
「聖女」という単語に、周囲の空気がわずかに揺れた。ヴィルヘルムの目が、微かに細まる。
「聖女様が、こんな辺境に何の用だ。……いや、それより先に聞くべきか。王都は、辺境の惨状をとうに知っているはずだ。それでも一切の支援を寄越さなかった王都の聖女様が、今更何をしに来た」
その声には、隠しきれない棘があった。長年見捨てられ続けてきた者だけが持つ、正当な怒り。
「私はもう、聖女ではありません。婚約を破棄され、聖紋も剥奪されました」
「……追放されたのか」
「はい」
短い沈黙が落ちる。ヴィルヘルムはしばらくアズマリアの顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「事情はどうあれ――あんたが今、この子らを救ったのは事実だ」
◇ ◇ ◇
その夜、ヴィルヘルムに案内されたのは、辺境伯領の中心にある古びた館だった。決して豪奢とは言えない、質実な造りの建物。壁には長年の戦いの傷跡だろうか、修復された跡がいくつも見て取れた。
案内された食堂で、アズマリアは初めてこの土地の現状を詳しく聞かされることになる。
「三年前から、この辺りは黒霧の森からの魔物の侵入と、原因不明の不作に苦しめられている。土地が枯れる速度に、対策が追いつかない」
ヴィルヘルムは地図を広げながら、淡々と説明を続けた。その口調には、絶望よりも、現実を直視する者特有の冷静さがあった。
「王都には何度も支援を要請した。だが返ってくるのは、いつも『戦線が優先』という同じ答えだけだ」
「……申し訳ありません」
「あんたが謝ることじゃない」
ヴィルヘルムは食器を置き、まっすぐにアズマリアを見た。
「あんたを追放した国が悪い。あんたが謝る道理はどこにもない」
その言葉に、アズマリアは思わず言葉を失った。王都では誰も、彼女に対してそんな言い方をしなかった。庇うか、憐れむか、あるいは黙殺するか――そのどれかだった。だがヴィルヘルムの言葉には、そのどれとも違う、まっすぐな公平さがあった。
◇ ◇ ◇
食事のあと、アズマリアは自分の素性を明かした上で、この土地を発つべきかを尋ねた。
「聖女ですらない、追放された身の上です。長居すれば、いずれこの領地にも迷惑がかかるかもしれません」
「……何を言ってる」
ヴィルヘルムは怪訝そうに眉を寄せた。
「元聖女だろうが何だろうが関係ない」
窓の外――治療を受けた少女が、村の子供たちと一緒に、久しぶりの笑い声を上げているのが見えた。傷ついた子供の手を握るアズマリアを見ながら、ヴィルヘルムは続けた。
「その子を救ってくれた。それだけで、あなたはこの領地の恩人だ」
その言葉が、アズマリアの中の何かに、静かに触れた。
能力ではなく。肩書きではなく。ただ、自分がそこにいたという事実だけで、必要とされる。生まれて初めて味わう感覚だった。
「……よろしいのですか。私のような者が、ここに」
「よろしいも何も」
ヴィルヘルムは、初めて小さく笑った。不器用な、しかし嘘のない笑みだった。
「明日から、治療院を手伝ってもらえると助かる。人手が全く足りていない」
その一言が、アズマリアにとって、王国のどんな称号よりも重い意味を持っていた。
◇ ◇ ◇
その夜、あてがわれた質素な部屋の窓辺で、アズマリアは久しぶりに深く息を吐いた。
王都を出てから半月。ようやく、体の奥に凝り固まっていた何かが、少しだけ緩んだ気がした。
窓の外に広がる荒れた大地を見つめながら、彼女は静かに思う。
――ここでなら、何かが変わるかもしれない。
その予感が、まだこの時のアズマリアには、どれほど大きな意味を持つことになるのか、知る由もなかった。




