Ep04. たった一人の見送り
夜明け前の王都は、まだ完全な闇の底に沈んでいた。
石畳を叩く馬車の車輪の音だけが、静まり返った街路に規則正しく響く。空気は刺すように冷たく、吐く息が白く尾を引いて、すぐに闇へ溶けて消えていった。遠くで一番鶏が鳴く。それだけが、この街がまだ生きていることの、ささやかな証だった。
アズマリアは古びた馬車の座席に腰を下ろし、膝の上に置いた革袋を両手で抱えていた。中身は数着の衣服と、治療道具の一式、そして幼い頃から書き綴ってきた手帳の束――それだけが、十八年間この王都で生きてきた証のすべてだった。
御者は何も言わない。ただ黙々と手綱を握り、馬を進める。契約でそう決められているのか、あるいは単に、彼女に何を言えばいいのか分からないだけなのか。アズマリアにも、それを尋ねる気力はなかった。
窓の外を、見慣れた街並みが流れていく。石造りの家々、閉ざされた商店の扉、まだ灯りの点らない街灯。何もかもが、これまでと同じ姿のまま、そこにある。変わったのは、それを見る自分の側だけだった。
◇ ◇ ◇
城門が近づいてくる。
巨大な鉄格子の門は、朝の光もまだ届かぬ薄闇の中で、黒々とした輪郭だけを浮かび上がらせていた。門番の詰所には灯りがひとつ。それ以外に、人の気配はない。
――誰も見送りには来ない。
そう思っていた。思っていたはずだった。だからこそ、馬車が門の手前で速度を落としたとき、そこに人影がひとつ立っているのを見て、アズマリアは自分の目を疑った。
老いた男だった。粗末な外套を羽織り、片方の足を庇うようにして立っている。かつて騎士だったことを物語る、まっすぐな背筋。だが、その頬には深い皺が刻まれ、白髪の下の瞳だけが、やけに強い光を宿していた。
馬車が止まる。アズマリアは扉を開け、外へ降り立った。
「……あなたは」
「覚えておいでですか。三年前、北方戦線で足を潰した老いぼれのことを」
その声で、記憶が一気に繋がった。あの日、崩れた岩の下敷きになり、左足の骨が粉々に砕けていた老騎士。誰もが「もう戦えない」「治療の価値なし」と匙を投げた中、アズマリアだけが夜を徹してその足に《神癒》をかけ続けた。
「バルトロ……様」
「様、はよしていただきたい。ただの隠居した老兵ですよ」
バルトロは、深々と頭を垂れた。粗末な外套の裾が、冷たい風に微かに揺れる。
「聖女様。……いえ、もう聖女様とお呼びしてはいけないのでしたか」
「今の私は、ただのアズマリアです」
「では、アズマリア様」
バルトロは顔を上げた。その目には、はっきりとした怒りの色が宿っていた。老兵らしい、静かで、しかし深い怒り。
「この老いぼれは、王都の噂話というものにはとんと疎いのですが。……昨日、城門の外で聞きました。あなた様が、婚約を破棄され、聖紋を剥奪され、この王都を追われることになった、と」
「……」
「あなた様を役立たずなどと呼ぶ国のほうが、どうかしております」
その一言が、アズマリアの中で何かを決壊させた。
これまで、どれだけ陰口を叩かれても。どれだけ「治療係」「無駄遣い」と蔑まれても。式典の壇上で数千の目に晒されながら婚約を破棄されても。アズマリアは、涙を流さなかった。流せなかった、というほうが正確かもしれない。聖女とは、感情を表に出すべきではない存在だと、ずっとそう教え込まれてきたから。
だが、この老いた元騎士のたった一言が、その堰を崩した。
「……っ」
声にならない嗚咽が漏れる。目の縁に膨れ上がった涙が、堪えきれずに頬を伝った。冷たい夜気の中で、その滴だけが不思議なほど熱かった。
バルトロは、それ以上何も言わなかった。ただ、深く頭を垂れたまま、彼女が泣き止むのを黙って待っていた。老兵らしい、不器用な優しさだった。
◇ ◇ ◇
「……お見苦しいところを」
ようやく涙を拭い、アズマリアは小さく笑った。自分でも驚くほど、その笑みは久しぶりのものだった。
「いいえ。三年前、あなた様に救われた命です。この老いぼれにできることなど、こうして頭を下げることぐらいしかありませんが」
バルトロは懐から、小さな布包みを取り出した。
「餞別と呼べるほどのものではありませんが。道中の足しにしてください」
包みの中には、干し肉と硬いパン、そして小さな護符がひとつ入っていた。
「これは……」
「北方戦線で拾った、古い浄化の護符です。魔除けほどの力はありませんが、悪い気配を薄める程度の効果はあるかと」
護符に触れた瞬間、アズマリアの掌に、微かな魔力の残滓が伝わってきた。粗末だが、確かに込められた祈りの気配。それは、彼女がこれまで王城で与えられてきた、どんな豪華な装飾品よりも、ずっと温かいものに感じられた。
「ありがとうございます、バルトロ様」
「どうか、お気をつけて。……そして、あなた様を蔑ろにしたこの国の愚かさを、どうかいつか、思い知らせてやってください」
その言葉に込められた願いの重さを、この時のアズマリアはまだ、正確には理解していなかった。
◇ ◇ ◇
馬車が再び動き出す。
振り返ると、バルトロは城門の前に立ち尽くしたまま、いつまでも小さくなっていく馬車を見送っていた。その姿が朝靄の向こうに消えるまで、アズマリアは窓から視線を離さなかった。
――誰も見送りには来ない。
その予想は、たった一人分だけ、外れた。
だがその一人の存在が、アズマリアにとっては、王国全体の無関心よりもずっと重く、ずっと温かいものだった。
◇ ◇ ◇
その頃――王都の奥深く、大神殿の最奥。
朝の礼拝のため聖樹の間を訪れた若い神官が、異変に気づいたのは、扉を開けた瞬間だった。
「な……っ」
昨夜まで淡い金色の光を湛えていたはずの聖樹が、灰色に変色していた。葉という葉が、一夜にして生気を失い、幹の表面には無数の亀裂が走っている。まるで、千年の時を一晩で駆け抜けてしまったかのような、急激な老化だった。
神官の悲鳴じみた報告を受け、駆けつけたグレゴリウスは、変わり果てた聖樹を前に、しばらく言葉を失っていた。
「……偶然、でございましょう」
やがて絞り出されたその言葉は、誰に向けたものというより、自分自身に言い聞かせるためのものだった。
同じ頃、王都全域を覆う結界の要石に、誰も気づかぬまま、髪の毛ほどの細さの亀裂が一本、静かに走っていた。
◇ ◇ ◇
馬車に揺られながら、アズマリアはバルトロから貰った護符を、そっと胸元に握りしめていた。
王都から遠ざかるにつれ、石畳の道はやがて土の道へ、整えられた並木はやがて荒れた雑木林へと姿を変えていく。窓の外に流れる景色が変わるたび、彼女の中で何かが少しずつ剥がれ落ちていくような感覚があった。「聖女」という肩書き。「役立たず」という蔑称。それらすべてが、この馬車の轍の向こうに置き去りにされていく。
目指すは、王国最北端――魔物と飢饉に苦しむと噂される辺境伯領、エルグラード。
そこに何が待っているのか、アズマリアにはまだ、何も分からない。
ただ、朝焼けに染まり始めた空を見上げながら、彼女は静かに思った。
――この先に、私の居場所などあるのだろうか。
その問いの答えを、彼女はまだ知らない。




