Ep03. 婚約破棄
その日、王城正面の大階段前広場には、朝から異様な数の人だかりができていた。
石畳を踏み鳴らす軍靴の音、旗竿がはためく乾いた音、そして人々のざわめき。空はよく晴れていて、初夏の陽射しが石造りの城壁に反射し、目を細めなければ正面を見られないほどの眩しさだった。焼けたパンの匂いが屋台から漂い、それに混じって、大勢の人間が発する熱気そのものの匂いが立ち込めている。今日は「聖女序列再編式典」――アズマリアはそう聞かされていた。
壇上には国王グランツ、大神官グレゴリウス、そして第二王子ユリウスが並んで立っている。壇下には整列した近衛騎士団、その向こうに詰めかけた民衆。アズマリアは他の三人の聖女と共に、壇の脇に控えていた。
式典自体は、最初はいつも通りの退屈な儀礼として進んでいった。エレオノーラの戦功への叙勲。アロセールへの新たな称号の授与。リザへの騎士団名誉隊員としての任命。拍手と歓声が、その都度、広場を揺らす。
そして最後に、ユリウスがアズマリアの名を呼んだ。
「アズマリア」
いつもと違う声の硬さに、アズマリアはその時初めて、この式典の本当の目的を悟った。
◇ ◇ ◇
「――俺は、お前との婚約を、ここに解消する」
声は広場の隅々まで届くよう、意図して張り上げられていた。ざわめきが一瞬にして凪ぐ。数千の視線が、一斉にアズマリアへと突き刺さった。
「戦えぬ聖女を、王家に迎える意味はない。これは俺個人の感情ではなく、王国の未来のための判断だ」
乾いた音が、頭の中で何かの糸が切れる音のように響いた。不思議なことに、痛みはまだ実感を伴っていなかった。あまりにも予想通りすぎて、心のどこかが「ああ、やはり」と、他人事のように納得してしまっている自分がいる。
広場からは、驚きよりも、むしろ得心したようなざわめきが漏れ聞こえてきた。
「戦えない聖女だものな……」
「妥当な判断じゃないか」
「むしろ今まで婚約者だったことの方が不思議だった」
悪意ではなく、当然の帰結として語られる声。それが一番、深く突き刺さった。
◇ ◇ ◇
畳みかけるように、大神官グレゴリウスが一歩前へ出た。
「加えて神殿より、正式な通達がございます」
彼の声は式典用の抑揚を保ったまま、淡々と続いた。
「《神癒の聖女》アズマリアより、聖女位階を剥奪いたします。以降、彼女に聖紋の使用及び神殿施設への立ち入りを禁じます」
聖紋剥奪。
その一言が持つ意味を、アズマリアは誰よりもよく理解していた。それは単なる肩書きの喪失ではない。生まれてからずっと自分を形作ってきた「聖女」という骨組みそのものを、根こそぎ引き抜かれるということだった。
国王グランツが小さく頷き、告げる。
「戦力の再配置は、王国存続のための急務である。……アズマリアよ、これまでの働きには感謝する。だが、王都に留まる理由は、もはやない」
感謝する、という言葉が、こんなにも空虚に響くことがあるのだと、アズマリアは初めて知った。
◇ ◇ ◇
壇上を降りるとき、視界の端にアロセールの姿が映った。表情はいつも通り動いていない。だがその手は、拳の形にきつく握り込まれていた。何かを言おうとして、しかし彼女は結局、何も言わなかった。この場で異議を唱えることの無意味さを、彼女自身が一番理解していたのかもしれない。
エレオノーラは目を伏せ、リザは唇を噛んでいた。それぞれの反応が、それぞれの不器用な形で、アズマリアへの言葉にならない何かを伝えようとしていた。だが、この式典という舞台の上では、誰の感情も、決定を覆す力にはならない。
城の使用人に案内され、私室へ戻ったアズマリアは、机の上に用意されていた小さな革袋と、簡素な旅装を見つけた。それだけが、これから彼女に許された全てだった。
◇ ◇ ◇
荷造りは、驚くほど早く終わった。
もとより、この部屋に自分のものと呼べるものはそう多くなかったことに、今更ながら気づかされる。数着の衣服、治療道具の一式、幼い頃から書き綴ってきた手帳の束。それだけを鞄に詰め終えたとき、窓の外はすでに茜色に染まり始めていた。
扉を叩く音がした。開けると、そこに立っていたのは老いた侍女だった。目を伏せたまま、彼女は震える声で告げる。
「明朝、馬車をご用意いたします。……それ以外、私にできることは何も」
「ありがとう。十分です」
侍女は何か言いたげに口を開きかけたが、結局、深く頭を下げただけで去っていった。誰もが、この決定に対して何も言えない。それがこの国の在り方なのだと、アズマリアは静かに理解していた。
◇ ◇ ◇
その夜、最後にもう一度だけ、聖樹の間へ足を運んだ。
立ち入りを禁じられた身であることは分かっていた。それでも、どうしても最後にもう一度、確かめておきたかった。
石造りの回廊は、いつも通り冷たく静まり返っている。聖樹の間の扉を開けると、聖樹はいつも通り、根元だけがほんの少し温かかった。
膝をつき、両手を組む。もう自分にその資格がないことは分かっている。それでも、体が勝手に、十八年間続けてきた動作をなぞってしまう。
祈りを終え、立ち上がったその瞬間――
聖樹の幹の表面を、ほんの一瞬、これまで見たことのない色の光が走った気がした。
淡い金色ではなく、どこか濁った、灰色がかった光。
まばたきをした瞬間には、もうそれは消えていた。見間違いだろうか。それとも――
アズマリアには、確かめる術がなかった。そして翌朝、彼女はもうこの神殿を、この王都を、後にすることになる。
◇ ◇ ◇
誰も見送りには来ない。
城門をくぐるとき、アズマリアはそう思っていた。
だが、その予想は――ほんの少しだけ、外れることになる。




