Ep10. 最初の旅商人
村の広場に、見慣れぬ荷馬車が停まったのは、朝靄がようやく晴れかけた頃だった。
車輪には遠い道のりを物語る泥がびっしりとこびりつき、荷台には麻布で覆われた荷物が山と積まれている。汗と埃、それに馬の体臭が混じった匂いが、朝の澄んだ空気の中に異物のように漂っていた。村人たちが遠巻きに集まり、ひそひそと囁き合う声が広場に満ちる。この土地に、余所者の商人が訪れることなど、この三年、ほとんどなかったことだった。
荷台から降り立ったのは、恰幅のいい中年の男だった。汗染みの浮いた上着に、指には幾つもの安物の指輪。目つきだけは商人らしく、油断なく周囲を値踏みするように動いている。
「――ここが、噂の土地かい」
男は喉の渇きを潤すように水筒を呷ると、周囲を見回して呟いた。荒野だったはずの土地の端に、青々とした畑が広がっているのを見て、その目に隠しきれない驚きが浮かぶ。
「本当だったのか。作物が一晩で育つ土地、なんて話……」
◇ ◇ ◇
騒ぎを聞きつけ、治療院から駆けつけたアズマリアは、遠巻きに商人を見る村人たちの輪の中に加わった。隣に立つセーラが、興味津々といった様子で背伸びをする。
「お姉ちゃん、あの人、誰?」
「さあ……お客様、でしょうか」
答えながらも、アズマリアの胸には小さな不安が広がっていた。噂が広まることは、良いことばかりではないかもしれない。王都で散々「役立たず」と値踏みされてきた記憶が、ふとよぎる。
商人はやがて村長らしき老人を見つけると、揉み手をしながら早口でまくし立て始めた。
「いやいや、突然お邪魔して申し訳ない。実は東の街道筋で、こちらの噂を耳にしましてね。病が治る土地、作物が枯れない土地――にわかには信じがたい話ですが、実際にこの目で確かめに参った次第で」
「噂は、大げさに伝わりがちなものですが」
村長が慎重に答えると、商人は畑を指差しながら声を弾ませた。
「大げさどころか、控えめすぎたぐらいだ! あの麦畑を見れば一目瞭然だよ。……ここに、聖女様がいらっしゃるとか」
その視線が、輪の外側に立つアズマリアへと向けられる。値踏みするような、それでいてどこか期待に満ちた視線だった。
◇ ◇ ◇
「――アズマリア様、と伺っております」
商人がにこやかに歩み寄ってくる。アズマリアは反射的に身構えたが、その笑みには、これまで王都で向けられてきたような侮蔑の色はなかった。
「はい。……以前は聖女でしたが、今は」
「いえいえ、肩書きなどどうでもいい。この目で見た奇跡が、何よりの証明ですから」
商人は懐から取り出した契約書らしき紙を、興奮した様子で広げてみせた。
「もしよろしければ、こちらの村と交易の話をさせていただきたい。薬草、穀物……何でもこちらで買い取らせていただきます。それに、街道筋で広まっている噂話が本当なら、これからもっと多くの商人や、行き場を失った人々が、この土地を目指してくるはずです」
その言葉に、村長と村人たちの間に、驚きとざわめきが広がった。三年もの間、飢えと孤立に苦しんできたこの土地に、外部との繋がりが戻ってくる――それがどれほどの意味を持つか、この場にいる誰もが痛いほど理解していた。
◇ ◇ ◇
その夜、館の食堂で交易の件を報告したアズマリアに、ヴィルヘルムは複雑な表情を浮かべていた。
「良い話ではある。だが、諸手を挙げて喜べる話でもない」
「どういう、意味でしょうか」
「人が集まれば、それだけ目立つ。目立てば、王都の目にも留まる」
ヴィルヘルムは椅子に深く腰掛け、腕を組んだ。焦げ茶の髪の下、鋭い眼光が窓の外――王都のある方角へと向けられる。
「あんたを追放した連中が、あんたの本当の価値に気づいたとき、どう出るか。……正直、俺には予想がつかない」
その言葉に、アズマリアの胸の奥が、ひやりと冷えた。追放された身であることへの安堵と、王都に見出されることへの恐れ。相反する二つの感情が、同時に押し寄せてくる。
「怖い、ですか」
ヴィルヘルムがふと尋ねる。アズマリアは少し考えてから、正直に頷いた。
「……はい。でも」
「でも?」
「今はまだ、この土地に、私を必要としてくれる人たちがいます。それだけで、十分だと思えるんです」
その答えに、ヴィルヘルムは一瞬だけ、意外そうな顔をした。それから、ふっと目元を緩める。
「――なら、俺たちがすべきことは変わらない。この土地を、少しずつでも豊かにしていくだけだ」
◇ ◇ ◇
数日後、辺境伯領には、噂を聞きつけた旅人や難民の姿が、ぽつりぽつりと見え始めるようになった。
飢饉に苦しむ隣領から逃れてきた家族、行き場を失った流浪の職人、あるいは単に噂を確かめに来ただけの物見高い旅人。それぞれの事情を抱えた人々が、荒れ果てていたはずのこの土地に、新しい生活の芽を見出そうとしていた。
アズマリアはその一人ひとりに、変わらず手を差し伸べ続けた。傷を癒やし、病を治し、時には荒れた小さな畑にまで祈りを捧げる。そのたびに、辺境の風景は、少しずつ、しかし確実に色を取り戻していった。
◇ ◇ ◇
その頃、王都から遠く離れたこの土地の噂は、街道を行き交う商人たちの口を通じて、着実に広がりを見せていた。
「エルグラードに行けば、どんな傷でも治る」
「あそこの土地は、飢えを知らないらしい」
噂話は、旅人から旅人へ、村から村へと伝播し、やがて王都の市井にまで、その断片が届き始める。
だが、まだ誰も――アズマリア自身でさえも――その噂が、王国の中枢に住まう者たちの耳に届いたとき、いったい何が引き起こされるのかを、正確に理解してはいなかった。
静かに膨らみ続けるこの噂こそが、やがて王都と辺境、その両方の運命を大きく動かす引き金になろうとしていた。




