Ep11. 根付く日々
村の東側、かつては雑草すら生えなかった荒れ地に、いつのまにか小さな水路が延び始めていた。
石を組んだ水路の縁には、まだ真新しい木の杭が打たれ、澄んだ水が朝日を弾いてきらきらと輝いている。せせらぎの音に混じって、槌を打つ音、木材を運ぶ男たちの掛け声が響いていた。土と汗の匂い、削られたばかりの木材の青い香り、そして水路を伝う水のひんやりとした気配――それらすべてが、この土地に流れ始めた新しい時間を物語っていた。
アズマリアは水路の縁にしゃがみ込み、両手で水をすくい上げた。指の隙間からこぼれ落ちる水は、これまで見てきたどんな水よりも澄んでいる。
「――綺麗、ですね」
「あんたが浄化した井戸の水源から引いてる。……この調子なら、来年には隣の村まで水路を延ばせるかもしれない」
答えたのはヴィルヘルムだった。作業着代わりの簡素なシャツに、泥のついた長靴。領主自らが現場で指揮を執る姿は、王都の貴族たちからは決して見られないものだった。
◇ ◇ ◇
この十数日で、アズマリアの日々は目まぐるしく広がっていた。
朝は治療院で患者を診て、昼は孤児院の建設現場に顔を出し、傷ついた作業員を癒やす。午後には薬草園の手入れを手伝い、時には土に直接祈りを捧げて、薬効の強い品種の生育を早めることもあった。
「聖女様、こっち見てください!」
孤児院の敷地では、セーラを含む数人の子供たちが、まだ骨組みだけの建物の前で駆け回っていた。飢えと病に苛まれていた頃の面影は、もうほとんど残っていない。
「今日はここまでにしましょう。無理をしては、体に障ります」
声をかけながら、アズマリアは自分自身にも、その言葉を言い聞かせているような気がした。休むということを、彼女はまだ、あまり上手にできずにいた。
◇ ◇ ◇
その夕方、治療院で一人、書類の整理をしていたアズマリアのもとへ、ヴィルヘルムがやってきた。
「――また、昼を抜いたな」
図星を指され、アズマリアは思わず視線を逸らした。
「少し立て込んでいて……」
「言い訳は聞かん」
ヴィルヘルムは持ってきた包みを机に置いた。中には、まだ湯気の立つパンと、干し肉のスープが入っている。
「魔力循環が乱れれば、いくら根源術式の効率が良くても、いずれ体が保たなくなる。あんたは規格外の術者だが、不死身じゃない」
その言い方に、アズマリアは思わず小さく噴き出した。
「心配してくださっているんですか」
「当然だろう」
ヴィルヘルムはぶっきらぼうにそう言うと、向かいの椅子に腰を下ろした。二人分の湯気が、静かな治療院の空気にゆっくりと溶けていく。
◇ ◇ ◇
「王都にいた頃は、こんな風に、誰かと食事をする時間もありませんでした」
スープを口に運びながら、アズマリアがぽつりと呟く。
「治療の合間に、立ったまま何かを口にする。それが当たり前でした。誰も、私が休むことなど、気にも留めませんでしたから」
「今は?」
「……今日は、何もしなくていい、と言ってくださる方がいます」
その答えに、ヴィルヘルムは少し驚いたように目を見開いたあと、ふっと目元を緩めた。
「なら、これからも、たまにはそう言わせてもらう」
その言葉に込められた不器用な優しさが、アズマリアの胸の奥に、じんわりと染み込んでいった。王都で与えられた称賛や地位よりも、この何気ない気遣いの方が、よほど確かな重みを持って感じられる。
◇ ◇ ◇
食事を終えた頃、治療院の扉が控えめに叩かれた。顔を出したのはフェリクスだった。
「夜分に失礼いたします。……例の石片について、また一つ、解読が進みましたので」
アズマリアとヴィルヘルムは顔を見合わせ、フェリクスを中へ招き入れた。老司書は懐から写し取った文字の羅列を取り出し、机に広げる。
「《根源語》の解読には時間がかかりますが、今回はこの一文が読み解けました。……《癒えし者、四つに分かれ、天地を巡る》」
「四つ……」
アズマリアの脳裏に、自然と四人の顔が浮かんだ。紅蓮のエレオノーラ、轟雷のアロセール、衝撃のリザ、そして自分。
「もしかして、これは」
ヴィルヘルムが眉をひそめる。
「王国の四聖女のことを、指しているのか」
フェリクスは慎重に頷いた。
「断定はできません。ですが、《神癒》が世界の根源に関わる力であるならば……他の聖女たちの力もまた、それと無関係ではない可能性がございます」
その言葉に、アズマリアの胸に、名状しがたい予感がよぎった。王都に残してきた三人の聖女たち――エレオノーラの明るい笑顔、アロセールの静かな公平さ、リザの不器用な誠実さ――彼女たちの顔が、脳裏を過ぎっていく。
◇ ◇ ◇
その夜、館を辞したアズマリアは、澄み渡った星空の下を一人歩きながら、フェリクスの言葉を反芻していた。
《癒えし者、四つに分かれ、天地を巡る》。
もしその一節が本当に四聖女を指すのだとしたら、自分たちの力は、これまで信じられてきたよりもずっと深く、根っこの部分で繋がっているのかもしれない。
だが、その繋がりが何を意味するのか、この時のアズマリアには、まだ知る術がなかった。
◇ ◇ ◇
そして、その頃――遠く離れた王都では。
誰も予期していなかった異変が、静かに、しかし確実に、四聖女たちの身に忍び寄り始めていた。
次にアズマリアがその異変を知るとき、辺境で紡がれてきた穏やかな日々は、大きな転換点を迎えることになる。




