Ep12. 欠けゆく炎
王都北方演習場。
朝靄の残る広大な平地に、焦げた土の匂いが漂っていた。標的用に組まれた石壁のいくつかは、これまでの訓練で受けた攻撃の跡だろう、黒く焼け爛れている。冷えた空気の中、遠くで馬の嘶きと、鎧の擦れる金属音が響いていた。演習を見守る兵士たちの吐く息が、白く尾を引いては消えていく。
その中央に立っていたのは、《紅蓮の聖女》エレオノーラだった。
真紅の髪をふわりと揺らし、金色の瞳を標的の石壁へ向ける。いつもなら、詠唱破棄の一言と共に、石壁ごと大地を焦がす火柱が立ち上るはずだった。
「――《紅蓮閃・弐式》」
放たれた炎は、しかし、これまでの半分にも満たない規模で、石壁の表面をわずかに焦がしただけで消えていった。
「……嘘、でしょ」
エレオノーラは自分の手のひらを見つめ、呆然と呟いた。太陽のように明るいはずのその表情に、初めて見る戸惑いの色が滲む。
◇ ◇ ◇
「もう一度だ。詠唱の構成を確認しろ」
演習を監督していた騎士団長が、苛立ちを隠しきれない声で告げる。エレオノーラは深呼吸をして、再び詠唱破棄を発動させた。だが、結果は変わらない。魔力は確かに練り上げられているのに、それが術式へと変換される段階で、まるで何かに堰き止められているかのように、力が萎んでいく。
「魔力量は落ちてない。……なのに、出力だけが落ちてる」
傍らで見ていたアロセールが、静かにそう指摘した。長い金の髪を一本に編んだその表情は、いつも通り動かない。だが、帯電しているはずの掌には、いつもより明らかに弱々しい光しか宿っていなかった。
「アロセール様も、ですか」
「……ああ。昨夜、ワイバーンの討伐に出た。いつもの半分の威力しか出せず、危うく仕留め損ねるところだった」
その声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。実戦で結果を出すことに誇りを持つ彼女にとって、自分の力が理由もわからず弱まっていくことは、何よりの屈辱だった。
◇ ◇ ◇
演習場の隅、地面に座り込んでいたのは《衝撃の聖女》リザだった。短く刈り込んだ赤茶の髪を掻き乱し、悔しさを滲ませた表情で拳を握りしめている。
「あたしも、駄目だった。衝撃波、いつもの半分も飛ばなかった」
十五歳という年齢に見合わぬ、歴戦の気迫を纏っていたはずの彼女の声が、今は明らかに震えていた。
「三人揃って、同じ症状が出ているということか」
アロセールが、静かに、しかし確かな緊張を滲ませて呟いた。
「偶然にしては、出来すぎている」
その言葉に、エレオノーラも、リザも、何も返せなかった。誰もが薄々気づいていた。この異変が始まったのは、ちょうど――アズマリアが追放されて以降のことだと。
◇ ◇ ◇
その日の午後、大神殿の一室に、緊急の招集がかけられた。
薄暗い室内には、大神官グレゴリウスと、数名の高位神官たちが集められている。壁際に並べられた燭台の炎が、不安げに揺れる神官たちの顔を、赤々と照らし出していた。
「王国全域で、結界の強度低下が観測されております。……さらに、聖女たちの出力低下」
報告する若い神官の声は、明らかに強張っていた。
「北方戦線でも、魔物の侵入頻度が上昇しております。これまで結界に阻まれていた個体まで、国境を越え始めている、と」
グレゴリウスは、白髪を撫でつけながら、しばらく無言だった。その双眸に浮かぶのは、値踏みの光ではなく、初めて見る、隠しきれない焦燥だった。
「――疫病の報告も上がっているそうだな」
「はい。王都南部の下町で、原因不明の熱病が広がりつつあると」
「農作物の不作は」
「東部の穀倉地帯で、例年にない規模の減収が見込まれております」
いくつもの悪報が、まるで示し合わせたように、同時期に押し寄せていた。
◇ ◇ ◇
「――これらの異変が、すべて同じ時期に始まっている、ということに、何か意味があるとお考えですか」
年配の神官の一人が、恐る恐る口を開く。グレゴリウスは、しばらく答えなかった。答えたくない、というより、答えを口にすることそのものに、何か強い抵抗を感じているようだった。
「――神殿の禁書庫を、開けよ」
その一言が、静まり返った室内に、重く落ちた。
禁書庫。かつて、神殿にとって都合の悪い記録、あるいは危険とされる古代の知識を封じるために設けられた場所。その扉が開かれるのは、実に百年ぶりのことだった。
◇ ◇ ◇
夜、松明の灯りを頼りに、グレゴリウス自らが禁書庫の扉を開いた。
埃と黴の匂いが、押し寄せるように鼻をつく。長年誰にも触れられていなかった書物の山が、松明の炎に照らされ、不気味な影を壁に落としていた。
「――この辺りだったはずだ」
グレゴリウスは震える手で、最奥の棚から一冊の古書を取り出した。表紙には、聖樹の紋様と共に、見慣れない文字が刻まれている。
ページをめくる指が、止まった。
そこに記されていたのは――《神癒の巫女は、聖女たちの根である》という、たった一行の記述だった。
◇ ◇ ◇
「攻撃系の聖女たちは花。王国を覆う結界は枝。国土を満たす生命力は葉。……そして、それらすべてへ力を供給する“根”こそが、《神癒の聖女》」
グレゴリウスは、震える声で、その一節を読み上げた。
室内が、水を打ったように静まり返る。誰も、言葉を発することができなかった。
もしこの記述が真実なら――王国は、自分たちの手で、王国そのものを支えていた根を、切り捨ててしまったことになる。
「……我々は」
グレゴリウスの声が、初めて、はっきりと震えていた。
「取り返しのつかないことを、してしまったのやもしれぬ」
◇ ◇ ◇
その夜、王城の一室で、その報告を受けた第二王子ユリウスは、しばらく言葉を失っていた。
窓の外に広がる王都の夜景――かつては誇らしく見えていたその光景が、今は何か、ひどく脆いものに見えて仕方がなかった。
自分が切り捨てた婚約者の姿が、脳裏をよぎる。
――俺は、いったい何を、手放したのだろう。
その問いへの答えを、彼はまだ、正面から受け止める覚悟ができていなかった。
◇ ◇ ◇
王国の中枢で静かに進行するこの異変を、辺境で穏やかな日々を紡ぐアズマリアは、まだ何一つ知らない。
だが、王都と辺境、遠く離れたこの二つの場所を繋ぐ見えない糸は、すでに、後戻りできない場所まで手繰り寄せられ始めていた。




