Ep13.黒霧の森
黒霧の森――その名の通り、常に黒い霧に包まれ、足を踏み入れた者の多くが二度と戻らないと言われてきた場所だった。
村の外れからその輪郭を望むだけでも、異様さは一目で分かる。他の木々が秋の色に染まりゆく中、その森だけは、いつまでも濁った闇色の靄に閉ざされたままだった。近づくにつれ、空気は湿り気を帯び、腐葉土と、それに混じった獣じみた匂いが鼻をついてくる。梢の奥から、時折、耳障りな唸り声が響いていた。踏み込む足元では、朽ちた木の根が、じっとりと湿った感触で靴底にまとわりつく。
ヴィルヘルムに案内され、アズマリアはその森の入口に立っていた。
「本当に、無理はしなくていい」
「大丈夫です。……ここも、癒やせるかもしれない」
水路や畑での成果を経て、アズマリアの中には、以前より確かな手応えが芽生えていた。まだ見ぬ対象にも、自分の力が届くかもしれないという、静かな期待。
◇ ◇ ◇
森の縁に膝をつき、両手を地面に押し当てる。詠唱を紡ぐと、光が地中深くへと広がっていった。しばらくは何も起こらない。だが、じわりと、霧の色が変わり始めた。黒々としていた霧が、薄い灰色を経て、やがて透明な朝靄のようなものへと変わっていく。
「――嘘だろ」
ヴィルヘルムの声に、隠しきれない驚きが滲んでいた。霧が晴れた森の奥から、これまで身を潜めていたのだろう、小さな生き物たちが次々と姿を現し始めた。
◇ ◇ ◇
最初に現れたのは、掌ほどの大きさの、淡く光る小さな影だった。
羽をきらめかせながら、その影はアズマリアの周りをくるくると回り、やがて肩の上にちょこんと降り立った。
「……妖精?」
「精霊、だな。それも、かなり位の高い」
ヴィルヘルムが緊張した声で言う。妖精じみた姿をしたその存在は、興味深そうにアズマリアの頬をつつくと、鈴を転がすような声で笑った。
『わあ、あったかい。ねえ、あなたが《神癒》の子?』
「……私の力を、ご存知なのですか」
『知ってるも何も、あなたの気配、森中に響き渡ってたよ。あたし、フィー。精霊王様に仕えてるんだけど、あなたの力に惹かれて出てきちゃった』
人懐っこい口調でそう名乗ると、フィーはアズマリアの髪に絡みつくようにして遊び始めた。その屈託のなさに、アズマリアは思わず頬を緩めた。
『それより、甘いもの持ってない? あたし、甘いものに目がないんだ』
「あ、いえ、あいにく今は……」
『えー、残念』
緊迫した森の奥で交わされる、あまりに気の抜けたやり取りに、ヴィルヘルムが小さく噴き出した。
◇ ◇ ◇
森の奥へと進むにつれ、霧はさらに晴れていった。かつて魔物の巣窟と恐れられていた場所に、今では小さな花畑が広がり、清らかな小川がせせらぎを立てている。
その小川のほとりに、白い影が横たわっていた。
「――あれは」
ヴィルヘルムが息を呑む。それは、子犬ほどの大きさの、白銀の毛並みを持つ獣だった。だが、ただの獣とは明らかに違う気配を纏っている。全身に走る淡い光の紋様、そして額に浮かぶ、聖印のような刻印。
「聖獣……」
アズマリアがそっと近づくと、その獣はゆっくりと瞼を開けた。長い眠りから覚めたばかりのように、その瞳はまだ焦点が定まっていなかった。
「大丈夫ですか」
両手をかざし、癒やしの光を送る。すると獣の体が淡く輝き、みるみるうちに毛艶を取り戻していった。
『……我を、癒やしたか』
低く、重々しい声が、直接頭の中に響いてきた。
「話せるのですか」
『我は白煌。神代より仕える白狼なり。永い眠りについていたが……そなたの力が、我を目覚めさせた』
白煌と名乗った獣は、ゆっくりと体を起こすと、アズマリアの手のひらに額をすり寄せた。人懐っこい仕草は、先ほどまでの重々しい声色とは裏腹に、まるで甘えた子犬のようだった。
『そなたのそばにいる。それが、我の役目だと思うゆえ』
その言葉に、アズマリアは戸惑いながらも、小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
森を抜け、村へ戻る道すがら、ヴィルヘルムはずっと押し黙っていた。何かを考え込むような横顔に、アズマリアが声をかける。
「どうかされましたか」
「……正直、まだ頭が追いついていない」
ヴィルヘルムは苦笑しながら、手綱を握り直した。
「魔物しかいなかった森が浄化され、稀少な精霊や聖獣が集まってくる。これはもう、辺境伯領の一領主が対処できる規模の話じゃない」
「ご迷惑を、おかけしているでしょうか」
「迷惑なわけがあるか」
ヴィルヘルムは即座に否定した。その声には、隠しきれない熱がこもっていた。
「フェリクスの解読が正しければ、あんたの力は王国そのものの根幹に関わるものだ。……迷惑どころか、これ以上ないほどの希望だ」
その言葉に、アズマリアの胸の奥が、じんわりと温かくなった。
◇ ◇ ◇
その夜、村の広場には、いつもより多くの灯りが点っていた。
浄化された森の話、精霊や聖獣が現れたという噂は、瞬く間に村中を駆け巡っていた。人々の表情には、これまでになかった明るさが宿っている。飢えと恐怖に支配されていた土地に、また一つ、希望の色が加わっていた。
肩に乗ったフィーが、アズマリアの耳元で囁く。
『ねえ、これからもっと色んな子が集まってくると思うよ。あなたの力、本当に特別だもの』
「特別、ですか」
『うん。あたしたちみたいなのが、こんなにすぐ懐くなんて、そうそうないことだよ』
足元に寄り添う白煌が、同意するように小さく鳴いた。
王都では「役立たず」と呼ばれた力が、ここでは精霊を呼び、聖獣を目覚めさせ、荒れ果てた大地を蘇らせている。その落差の大きさに、アズマリアは今更ながら眩暈にも似た感覚を覚えていた。
だが、この夜の希望に満ちた光景を、王都からの使者が目の当たりにするまで、そう長くはかからなかった。




