Ep14. 訪れる者
その日、辺境エルグラードへと続く街道の向こうに、王家の紋章を掲げた馬車が姿を現した。
磨き抜かれた黒塗りの車体に、金の装飾。この土地には不釣り合いなほど豪奢なその馬車は、整備されたばかりの街道を、規則正しい蹄の音と共に進んでくる。周囲に広がる黄金の麦畑が、初秋の風に波打ち、さわさわと乾いた音を立てていた。空気には、収穫を控えた麦の香ばしい匂いと、遠くの厨房から漂う出汁の匂いが混じっていた。
村の広場で洗濯物を干していた女たちが、手を止めて馬車を見つめる。かつて飢えと絶望しかなかったこの場所に、今や子供たちの笑い声が響いている。その中心に立つアズマリアの姿があった。
「――噂は、本当だったか」
馬車から降り立った青年を見て、アズマリアの心臓が、大きく跳ねた。
金の髪に鋭い目つき、鍛え上げられた体軀。第二王子ユリウス。かつての婚約者だった。
◇ ◇ ◇
ユリウスは、目の前に広がる光景に、明らかな動揺を隠しきれずにいた。
泥と飢餓に苦しんでいたはずの土地が、豊かな黄金の麦畑に変わっている。子供たちは笑い、水路には澄んだ水が流れている。そして、その中心には、王都で「役立たず」と切り捨てられたはずの、元婚約者の姿があった。
「これを……お前が」
「ええ。皆さんのお力添えあってのことですが」
アズマリアの声は、静かで、揺るがなかった。かつて婚約破棄を告げられたときの、あの他人事のような虚無感はもうそこにない。代わりにあるのは、確かな地に足のついた落ち着きだった。
◇ ◇ ◇
「単刀直入に言う」
ユリウスは、周囲の視線を意識するように声を張った。
「王国の危機だ。……王都へ戻れ」
その一言に、周囲の空気が凍りついた。畑の手入れをしていた村人たちが、手を止めてこちらを見る。セーラが不安げにアズマリアの袖を掴んだ。
「聖女序列の見直しに伴う結界の弱体化、聖女たちの出力低下――お前が抜けた穴を、王国はもう埋められずにいる。神殿の調査で、お前の力が王国の“根”に等しいものだと判明した。……ここは、お前がいるべき場所じゃない」
言葉の端々に、焦りが滲んでいた。命令、というより、懇願に近い響きが混じっているのを、アズマリアは静かに聞き取っていた。
◇ ◇ ◇
「――彼女はこの領地の客人だ」
割って入ったのは、ヴィルヘルムだった。焦げ茶の髪を風になびかせ、まっすぐにユリウスと対峙する。その眼光には、隠しきれない怒りが宿っていた。
「命令する権利は、あなたにはない」
「貴様、辺境伯風情が――」
「風情で結構。だが、この土地の主として言わせてもらう。あんたたちは、この人を『戦えぬ聖女』と切り捨てた。今更、都合よく呼び戻そうというなら、それこそ道理が通らない」
ヴィルヘルムの声には、王族相手にも一切怯まない芯の強さがあった。周囲の村人たちの間から、小さくどよめきが上がる。この土地の人間にとって、王族というものへの畏怖は、もはやとうに薄れていた。
◇ ◇ ◇
ユリウスは唇を噛み、それでも食い下がった。
「感情論を言っている場合か。神殿からの正式な要請だ。お前の力がなければ、四聖女たちの力の根幹が損なわれたままになる。……このままでは、王国そのものが立ち行かなくなる」
その言葉に、アズマリアの胸に、複雑な感情が渦巻いた。
王都で過ごした十八年間、自分がどれほど軽んじられていたか。それでも、そこには確かに人々が生きていて、エレオノーラやアロセール、リザという、大切に思う相手もいた。
だが――
「私はもう、王国の聖女ではありません」
静かに、しかしはっきりと、アズマリアは告げた。
◇ ◇ ◇
ユリウスの表情が、大きく揺れた。予想していなかった、というより、認めたくなかった答えを、突きつけられたような顔だった。
「アズマリア……」
「聖紋を剥奪されたその日から、私はもう聖女ではありません。それでも私に力を使えというのなら、それは命令ではなく、お願いとして届けていただかなければ」
その言葉は、これまでの十八年間、彼女が一度も口にできなかった種類のものだった。命じられるままに生きてきた聖女が、初めて、自分自身の言葉で、自分の立場を定義し直した瞬間だった。
ユリウスは何も言い返せず、ただ立ち尽くしていた。その目に浮かぶのは、怒りではなく、自分たちが取り返しのつかないことをしてしまったという、遅すぎる自覚だった。
◇ ◇ ◇
その夜、王都へ戻る馬車の中、ユリウスは一人、窓の外を流れる暗闇を見つめていた。
豊かに実った麦畑、笑う子供たち、そしてその中心で静かに、しかし確かな意志を持って立っていたアズマリアの姿が、何度も脳裏に蘇る。
――俺たちは、あの人の何を見ていたんだろう。
戦えるかどうかという、たった一つの物差しだけで、その内側にあるものすべてを見過ごしてきた。その事実の重さが、今になって、ようやく彼の肩にのしかかり始めていた。
◇ ◇ ◇
辺境に残されたアズマリアは、遠ざかる馬車を、複雑な思いで見送っていた。
「――怖くなかったか」
隣に立つヴィルヘルムが、静かに尋ねる。
「少しだけ。……でも、今の私には、守りたいものがここにあります」
その答えに、ヴィルヘルムは小さく頷いた。夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしている。
だが、この訪問が持ち帰る報告が、王都に何をもたらすのか。そして、王国と魔王軍の均衡が、この先どちらへ傾いていくのか――アズマリアには、まだ知る由もなかった。
静かな均衡が崩れ始める足音は、すでに、すぐそこまで迫っていた。




