EP88.血に刻まれた傷
魔族領の奥地魔王城に隣接する書庫には古い羊皮紙の匂いが満ちていた。
石壁から染み出す冷気が肌をひんやりと撫でる。積み上げられた書物の埃が灯りに照らされ淡く舞っていた。奥からは低く唸るような風の音が絶えず響いてくる。
アズマリアはガルシュタインとフェリクスと共にゲイルの家系に関する記録を探していた。
「――この一族は、たしか」
ガルシュタインが古びた血統書を手に取り眉を寄せた。
「千年前虚無の侵食が最も深かった一帯を守っていた一族だ。……代々その傷を一身に引き受け続けてきたと記録にある」
その説明にアズマリアは静かに頷いた。
「だから世界全体が癒えた今も、その家系にだけは、まだ穢れが残っているんですね」
「おそらくは。……あまりにも深く根付いた傷は、そなたの力をもってしても一度では拭いきれなかったのだろう」
その言葉にフェリクスが古い術式書を捲りながら口を挟んだ。
「――血統に刻まれた傷、という点では聖樹の記憶に似た性質を持つのかもしれません。継続的な働きかけが必要なのでしょう」
その考察にアズマリアは深く考え込んだ。
「――一度きりの浄化ではなく、聖樹と同じように時間をかけて癒やしていく必要がある、ということですね」
「はい。……そして、それを担うのは必ずしもあなた様一人である必要はないはずです」
フェリクスの言葉にガルシュタインが静かに頷いた。
「――ゲイルの父にも、基礎的な浄化の技を学んでもらうべきかもしれぬ。自らの血の傷と、自らの手で向き合えるように」
その提案にアズマリアは深く賛同した。
「良い考えだと思います。……私が代わりにやるのではなく、その家族自身が少しずつでも向き合えるように」
数日後エルグラードに戻ったアズマリアはゲイルとその父に事情を説明した。
「――俺の家系が、そんな重い役目を背負ってたなんて」
ゲイルの呟きに父親が静かに頷いた。
「――恥ずかしながら、詳しくは私も知らなかった。……先祖代々ただ苦しいものとしか伝えられていなかったからな」
その言葉にアズマリアは優しく声をかけた。
「――これから少しずつ一緒に向き合っていきましょう。まずは基礎的な浄化術式から」
その提案にゲイルの父は深く頭を下げた。
「――よろしく、お願いいたします」
その日から治療院の一角でゲイルとその父親のための特別な指導が始まることになった。セーラとナディアも協力を申し出た。
「――俺も、頑張らないとな」
ゲイルの決意にエリアーナが横で力強く頷いた。
「あたしも手伝うから」
その言葉にゲイルは少し照れくさそうに笑った。
指導初日治療院の裏庭で親子は並んで座り基礎的な詠唱を練習していた。ぎこちない手つきながらも二人の掌に小さな光が灯り始める。
「――少しずつでも、いい。焦らず続けることが大切です」
アズマリアの言葉に父子は互いに顔を見合わせ静かに微笑み合った。
その光景を見つめながらアズマリアは静かな充足感を覚えていた。自分が一方的に癒やすのではなく傷を抱える者自身が向き合う力を身につけていく。それこそがこの物語が積み重ねてきた本当の意味での回復の形だった。
夕暮れ治療院を後にする親子の背中を見送りながらヴィルヘルムが静かに呟いた。
「――また一つ新しい形の癒やしが生まれたな」
「はい。……これからも、こうしてそれぞれの傷に、それぞれのやり方で、向き合っていけたらと思います」
その言葉に込められた願いを胸にアズマリアたちの物語はまた新しい一歩を踏み出していく。
血に刻まれた古い傷が完全に癒える日はまだ遠い。だがその道のりを共に歩む手は確かに増え続けていた。




