EP72.遣いの船出
辺境伯館の会議室に、潮風の匂いを纏った地図が広げられていた。
羊皮紙の端はわずかに湿り気を帯び異国の墨で描かれた海図特有の匂いを漂わせている。窓の外では冬の終わりを告げる冷たい風が木々を揺らしていた。暖炉の薪が爆ぜる音だけが時折室内の沈黙を破っている。
「――グランディア諸島連合まで、船でどれほどかかりますか」
アズマリアの問いに、異国の商人は地図の一点を指さしながら答えた。
「順風であれば、二十日ほどかと。……ですが、この大陸から船を出す港自体が、久しく使われておりませんでした」
その説明に、ヴィルヘルムが腕を組んで唸った。
「港の整備から、始めなければならないということか」
「はい。ですが、海の魔物の動きが穏やかになった今なら、以前より、はるかに安全な航海になるはずです」
その言葉に、フェリクスが興奮を隠しきれない様子で身を乗り出した。
「――もし本当に、海を越えた交流が実現すれば、これは、この国の歴史における、最大級の出来事になります」
彼は震える手で、羊皮紙に何かを書き留め始めた。
その様子を見ながら、アズマリアは、静かに考えを巡らせていた。
「――誰か、最初の遣いを、送るべきでしょうか」
「ああ」
ヴィルヘルムが、静かに頷いた。
「だが、誰を送るかは、慎重に選ばなければならない。……向こうの信頼を得られる者でなければ、意味がない」
その言葉に、部屋の外から、聞き覚えのある声が響いた。
「――それなら、あたしが行く」
扉を開けて入ってきたのは、リザだった。王都から視察に訪れていた彼女は、まっすぐにアズマリアたちを見た。
「――リザ様?」
「あたし、ずっと、戦うことしかできない自分に、焦りを感じてた。……でも、こういう新しい繋がりを作る役目なら、あたしにもできることがあるかもしれない」
その決意に、アズマリアは、深い感慨を覚えた。かつて誇り高い戦士だった彼女が、今、まったく違う形の勇気を、示そうとしている。
「――危険は、伴います」
「分かってる。……でも、これまでだって、危険な戦場に、何度も立ってきた。今度は、剣じゃなくて、言葉で、道を切り開く番だと思う」
その言葉に、ヴィルヘルムが、静かに頷いた。
「――良い覚悟だ。だが、一人では行かせられない」
「もちろん、護衛はつけてくれ」
その会話に、異国の商人が、穏やかに微笑んだ。
「――私も、同行いたします。故郷への、良き橋渡しになれれば」
準備は、それから数週間にわたって、慎重に進められた。港の整備、船の手配、そして、双方の言葉の違いを埋めるための、簡単な通訳の育成。
出発の前夜、アズマリアは、リザに、一枚の護符を手渡した。
「――これは」
「バルトロ様から頂いた、古い浄化の護符です。……どうか、道中の無事を、お守りください」
その品を受け取ったリザは、しばらく、それを見つめていた。
「――大切なものを、いいのか」
「はい。……この護符が、これまで私を、何度も励ましてくれました。今度は、リザ様の旅を、支えてくれると思います」
その言葉に、リザは、深く頷いた。
「――絶対、無事に戻ってくる。それで、海の向こうの話を、山ほど聞かせてやるから」
その力強い約束に、アズマリアは、静かに微笑んだ。
出港の朝、港には、見送りの人々が集まっていた。修復されたばかりの船が、朝日を受けて、静かに水面に浮かんでいる。
「――行ってきます」
リザの声に、見送る人々が、大きく手を振った。
船が、少しずつ、沖へと進んでいく。その姿が、水平線の彼方へと消えていくまで、アズマリアは、静かに、見送り続けていた。
この一歩が、この世界に、どれほど大きな広がりをもたらすのか。その答えは、まだ、誰にも分からない。
だが、確かなことが一つだけある。アズマリアが辺境で紡いできた物語は、今、この大陸を超え、新しい海の向こうへと、その歩みを進め始めていた。




