EP67. 小さな芽吹き
辺境伯館の庭、そこには小さな花壇が新しく作られていた。
春の陽射しが柔らかく降り注ぎ、土の匂いと若葉の香りが辺りに満ちている。庭の隅では小鳥がさえずり、風が木々の葉を揺らす音が絶え間なく響いていた。二歳になったエリアーナは、白銀の柔らかな髪を風になびかせながら、花壇の前にしゃがみ込んでいた。
「――お花、痛いの?」
小さな声で、萎れかけた一輪の花に話しかけている。アズマリアは、その様子を、少し離れた場所から静かに見守っていた。
「どうしたの、エリアーナ」
「このお花、元気ないから」
エリアーナは、小さな両手を、萎れた花にそっとかざした。その瞬間、指先から、微かな光が滲み出す。
「――アズマリア、見てみろ」
傍らに立つヴィルヘルムが、緊張した面持ちで囁いた。萎れていた花弁が、ほんのわずかに、色を取り戻していく。完全な治癒には程遠い。だが、確かに何かが起きていた。
「――やっぱり、この子には」
アズマリアは、静かに息を呑んだ。以前、フェリクスが語った可能性が、また一つ、確かな形になって現れていた。
その日の夕方、王都から視察に訪れていたアロセールに、この出来事を報告した。
「――生命の気配に寄り添う力、というやつか」
アロセールは、興味深そうに、エリアーナの様子を観察した。
「完全な《神癒》ではない。だが、確かに、何らかの資質を受け継いでいるようだな」
その分析に、アズマリアは、複雑な感慨を覚えた。
「――この子に、無理をさせたくありません」
「分かっている」
アロセールは、静かに頷いた。
「今すぐ、術式を体系立てて教える必要はない。……ただ、この子自身が、自分の力に興味を持ったときに、正しく導いてやれる者が、そばにいることが大切だ」
その言葉に、アズマリアは、深く頷いた。
「――教育制度の改革も、こういう時のために、役立つんですね」
「ああ。焦らず、この子のペースで育てていけばいい」
その夜、寝室でエリアーナを寝かしつけながら、アズマリアは、小さな娘の寝顔を見つめていた。
「――あなたには、あなたの選ぶ道があります」
その呟きに、傍らに座るヴィルヘルムが、静かに応じた。
「――俺たちのような、複雑な運命を背負わせたくない、という気持ちはよく分かる。だが」
「だが?」
「もし、この子が、いつか、自分の意思で、誰かを癒やしたいと願うなら。その時は、俺たちが、全力で支えてやればいい」
その言葉に、アズマリアは、静かに微笑んだ。
「――そうですね。焦る必要は、ありませんね」
翌朝、庭に出たエリアーナは、また花壇の前にしゃがみ込んでいた。今度は、萎れた花ではなく、元気に咲いている花に、優しく話しかけている。
「――ずっと、綺麗でいてね」
その無邪気な言葉に、アズマリアの胸に、温かいものが込み上げた。この子は、力の使い方を、誰に教わるでもなく、既に、その本質――誰かを大切に想う心を、自然に身につけている。
「――お姉ちゃん」
声をかけてきたのは、セーラだった。見張り役の仕事の合間を縫って、久しぶりに顔を見せに来たらしい。隣には、ダリオの姿もあった。
「エリアーナ様、大きくなりましたね」
セーラが、優しく目を細める。ダリオも、興味深そうに、小さな少女を見つめていた。
「――将来、俺たちみたいに、この土地のために働く日が来るのかもな」
ダリオの呟きに、アズマリアは、静かに首を振った。
「――それを決めるのは、この子自身です。……私たちは、ただ、その選択を、見守るだけです」
その答えに、セーラとダリオは、顔を見合わせ、納得したように頷いた。
春の陽射しの中、花壇の前で無邪気に笑うエリアーナの姿を、集まった人々が、それぞれの想いを込めて見つめていた。
この小さな命が、これから、どんな道を歩んでいくのか。その答えは、まだ、誰にも分からない。だが、確かなことが一つだけある。
この子もまた、多くの人々の愛情と見守りの中で、確かに、育っていくということだった。




