EP61. 燻る火種
国境の交易地、その朝は、いつもと変わらぬ賑わいで始まっていた。
露店に並ぶ品々――人間側の織物や陶器、魔族側の鉱石や薬草――が、朝日を受けて、様々な色に輝いている。焼きたてのパンの匂いと、異国風の香辛料の匂いが、混じり合いながら漂っていた。呼び込みの声、値切り交渉の掛け合い、子供たちの笑い声。すべてが、この土地に根付き始めた、新しい日常を物語っていた。
だが、その平穏の中に、微かな、不穏な気配が、静かに忍び寄っていた。
◇ ◇ ◇
「――見ろ、あの倉庫の様子を」
交易地の見回りをしていた騎士の一人が、険しい表情で、仲間に耳打ちした。
倉庫の裏手、普段は使われないはずの場所に、複数の人影が、こっそりと集まっている。その中には、人間の姿だけでなく、魔族の姿も、混ざっていた。
◇ ◇ ◇
報告を受けたヴィルヘルムは、すぐさま、その場へと向かった。
「――何をしている」
その鋭い声に、集まっていた者たちが、一斉に振り返った。先頭に立っていたのは、以前、市場で「化け物風情」と魔族を罵っていた、あの人間の商人だった。
◇ ◇ ◇
「――辺境伯様」
商人は、気まずそうに、視線を逸らした。だが、その傍らに立つ魔族の男は、開き直ったように、鋭くヴィルヘルムを睨み返した。
「――我らにも、言い分がある」
「言い分、だと?」
◇ ◇ ◇
「和平とやらで、確かに、表面上は、穏やかになった。だが、根本的な不信は、何も解決していない」
魔族の男は、苦々しげに続けた。
「我らの中には、いまだ、人間を信用できぬ者が多い。……この交易地の裏で、密かに、独自の自衛組織を作ろうとしていたのだ」
◇ ◇ ◇
その告白に、ヴィルヘルムの表情が、険しくなった。
「自衛組織、というのは、穏やかな話じゃないな」
「――穏やかでなくて、悪いか。表向きの和平など、いつ崩れるとも知れぬ。その時に備えるのは、当然のことだろう」
◇ ◇ ◇
その言葉に、傍らの人間の商人も、静かに頷いた。
「――俺たちも、同じだ。魔族への根強い不信を持つ者は、まだまだ多い。……いざという時のために、備えておきたいと思うのは、間違ったことか」
その主張に、ヴィルヘルムは、しばらく、沈黙していた。
◇ ◇ ◇
「――間違っては、いない」
その答えに、集まった者たちが、意外そうに顔を見合わせた。
「不安を抱くことも、備えようとすることも、責められることじゃない。……だが」
ヴィルヘルムは、まっすぐに、彼らを見据えた。
◇ ◇ ◇
「秘密裏に、しかも、双方の不信を煽るような形で動けば、それこそが、和平を崩す、最初の引き金になりかねない」
その指摘に、その場の空気が、静かに張り詰めた。
「――お前たちの不安は、正当なものだ。だからこそ、隠れてやるんじゃなく、正式な議題として、俺たちに相談してほしい」
◇ ◇ ◇
その提案に、魔族の男は、しばらく、考え込むように黙り込んでいた。
「――正式な議題、というのは」
「境界の卓に、正式な議題として、双方の不安を、上げる場を設ける。……隠れて動くより、堂々と、意見をぶつけ合う方が、よほど、建設的だろう」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、この出来事を報告されたアズマリアは、静かに、しかし深い懸念を滲ませていた。
「――不信は、まだ、確かに、燻り続けているんですね」
「ああ。……和平の書面一枚で、千年分の傷が消えるわけがない。それは、最初から、分かっていたことだ」
◇ ◇ ◇
ヴィルヘルムの言葉に、アズマリアは、静かに頷いた。
「――私にできることは、あるでしょうか」
「――ある」
ヴィルヘルムは、まっすぐに、彼女を見た。
「あんたが、これまでずっとやってきたことだ。……両方の傷に、丁寧に、寄り添い続けること」
◇ ◇ ◇
その言葉に、アズマリアは、深く息を吸い込んだ。
「――分かりました。境界の卓での議論に、私も、立ち会います」
その決意を胸に、彼女は、新たな課題と向き合う準備を、静かに始めていた。
◇ ◇ ◇
交易地の裏に燻っていた火種は、なんとか、大きな炎になる前に、その芽を摘むことができた。
だが、それは、根本的な解決とは、まだ、程遠かった。人々の心に深く刻まれた不信という傷は、これから先も、何度も、形を変えて、姿を現すことだろう。
その一つ一つに、これからも、丁寧に向き合い続けること――それこそが、アズマリアたちの選んだ、本当の意味での「和解への道」だった。




