EP60. 熱を出した夜
深夜の辺境伯館、子供部屋には、いつもとは違う、張り詰めた空気が満ちていた。
暖炉の炎が、壁に不安定な影を揺らしている。濡らした布を絞る音、そして、エリアーナの、苦しげな、小さな泣き声。部屋の中には、汗ばんだ肌の匂いと、煎じた薬草の、独特な香りが、混じり合っていた。窓の外では、冷たい夜風が、木の枝を揺らす音を立て続けている。
アズマリアは、額に浮かぶ汗を拭う間もなく、エリアーナの傍らに付き添っていた。
◇ ◇ ◇
「――熱が、下がりません」
その声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。生まれてから、半年あまり。これが、初めての、本格的な発熱だった。
「大丈夫だ。……こういうことは、子供にはよくあることだと、治療師も言っていた」
ヴィルヘルムが、努めて冷静な声で答える。だが、その表情にも、確かな不安が浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
「――私の力で、治せないでしょうか」
その提案に、ヴィルヘルムは、少し躊躇うように答えた。
「――前に、治療師が言っていたことを、覚えているか。乳児の体に、強い術式を使うのは、危険だと」
「はい。……でも」
アズマリアの声が、震えた。
◇ ◇ ◇
「――この子の苦しみを、見ていることしか、できないなんて」
その言葉に、ヴィルヘルムは、静かに、しかし確かな優しさを込めて、彼女の肩に触れた。
「あんたの気持ちは、分かる。だが、今は、焦って力を使うより、体の自然な回復力を、信じるべき時だ」
◇ ◇ ◇
そこへ、慌ただしく駆けつけたのは、辺境で医術を学んだ、あの若い治療師だった。
「――失礼します! すぐに、診せてください」
彼女は、手早く、エリアーナの様子を確認していく。額に触れ、脈を測り、呼吸の音に耳を澄ませた。
◇ ◇ ◇
「――熱の上がり方から見て、単純な風邪の症状かと思われます。……乳児の体は、こうして、熱を出しながら、自らの生体術式を、少しずつ強化していくものです」
「生体術式を、強化……?」
「はい。……病を経験することで、体が、その病に対する耐性を、自然に身につけていくのです。これは、《神癒》のような外部からの力ではなく、その子自身の、内側から生まれる、成長の過程です」
◇ ◇ ◇
その説明に、アズマリアは、少し考え込んだ。
「――つまり、今、私が力を使ってしまえば、この子が自分の力で乗り越える経験を、奪ってしまうことに、なりますか」
「――可能性は、あります。もちろん、熱があまりに高く、危険な水準に達すれば、話は別ですが」
◇ ◇ ◇
治療師は、優しく、しかし確かな口調で続けた。
「――今は、まだ、その水準には達していません。……付き添って、様子を見守ることが、今、あなた様にできる、一番の助けです」
その言葉に、アズマリアは、静かに、しかし確かな決意を込めて頷いた。
◇ ◇ ◇
その夜、アズマリアとヴィルヘルムは、交代で、エリアーナの傍らに付き添い続けた。
濡らした布で、そっと額を冷やす。震える小さな手を、優しく握る。子守唄にもならない、ただの、心からの言葉を、囁き続ける。
「――大丈夫。ちゃんと、乗り越えられますよ」
◇ ◇ ◇
夜明け近く、エリアーナの体温が、少しずつ、しかし確実に、下がり始めた。
「――良かった……!」
アズマリアの声に、安堵の涙が、こぼれ落ちた。ヴィルヘルムも、深く息を吐き、彼女の肩を、そっと抱き寄せた。
◇ ◇ ◇
朝日が差し込む頃には、エリアーナは、穏やかな寝息を立てて、すっかり眠りについていた。
その小さな顔を見つめながら、アズマリアは、静かに、これまでの一夜を振り返っていた。
「――力があっても、使わないという選択も、大切なんですね」
◇ ◇ ◇
その呟きに、ヴィルヘルムが、静かに頷いた。
「あんたらしい、気づき方だ」
「これまでの私は、力があれば、迷わず使うべきだと、思っていました。……でも、時には、見守ることの方が、大切な場合もあるんですね」
◇ ◇ ◇
その気づきは、アズマリアにとって、《神癒》という力そのものへの、新しい理解でもあった。
癒やすことだけが、愛情の形ではない。信じて、見守り、寄り添うこと。それもまた、彼女がこれまでの物語で、少しずつ学んできた、大切な在り方の一つだった。
◇ ◇ ◇
エリアーナの、小さな寝顔に、朝の光が、優しく降り注いでいた。
この一夜を乗り越えたことで、この子は、また一つ、確かに、成長していくのだろう。
そして、アズマリア自身もまた、母として、一人の人間として、これからも、少しずつ、成長し続けていく。
その道のりは、まだ、始まったばかりだった。




