EP59. 小さな芽
辺境伯館の一室、揺り籠が置かれたその部屋には、柔らかな光が満ちていた。
窓から差し込む午後の陽射しが、レースのカーテンを透かして、床に、繊細な模様を描いている。ミルクの、ほのかに甘い匂いと、洗い立ての布の、清潔な香りが、部屋中に漂っていた。小さな寝息の音と、時折漏れる、赤子の柔らかな声。それだけで、部屋全体が、これまでにない穏やかさで満たされていた。
アズマリアは、揺り籠の傍らに座り、エリアーナの、小さな寝顔を見つめていた。
◇ ◇ ◇
「――今日も、よく眠っていますね」
「そうだな。……この子は、案外、寝つきがいい方らしい」
傍らに立つヴィルヘルムが、静かに答えた。その表情には、これまでの厳格さとは違う、すっかり緩んだ、父親らしい優しさが浮かんでいる。
◇ ◇ ◇
その時、エリアーナが、微かに身をよじり、小さく泣き始めた。
「――あら」
アズマリアが、慣れた手つきで、その小さな体を抱き上げる。すると、その瞬間――
揺り籠の縁に置かれていた、一輪の造花が、ほんの一瞬、淡く光った気がした。
◇ ◇ ◇
「――今の、光は」
ヴィルヘルムが、驚いたように、造花を見つめた。アズマリアも、戸惑いながら、その花に、そっと触れた。
「――本物の花に、変わって、います」
造花だったはずのその花は、確かに、本物の、柔らかな花弁を持つ花へと、変化していた。
◇ ◇ ◇
「――まさか、エリアーナが」
その可能性に、二人は、しばらく、言葉を失った。フェリクスに相談すべきかどうか、アズマリアは、慎重に考えを巡らせた。
「――でも、まだ、断定はできません。ただの、偶然かもしれませんから」
「そうだな。……焦る必要はない」
◇ ◇ ◇
数日後、辺境を訪れたフェリクスに、その出来事を報告すると、彼は、興味深そうに、老眼鏡を押し上げた。
「――興味深い事例ですな。……そなた様の血を引く子であれば、《神癒》の資質を、微かに継承していることは、あり得る話でしょう」
「――完全な継承、ではなく?」
◇ ◇ ◇
「はい。……千年前の巫女の記憶が示すように、《神癒》という力そのものは、世代を超えて、意志のように受け継がれていくものかもしれません。ですが、それが、必ずしも、次の世代へ、そのまま受け継がれるとは限らないでしょう」
フェリクスは、慎重に言葉を選びながら続けた。
◇ ◇ ◇
「――もしかすると、エリアーナ様が受け継いだのは、《神癒》そのものではなく、その、ほんの一部――例えば、生命の気配に、寄り添う力、といった、小さな資質なのかもしれません」
その説明に、アズマリアは、静かに、複雑な感慨を覚えた。
「――この子に、大きな重荷を、負わせてしまうのでしょうか」
◇ ◇ ◇
その不安に、フェリクスは、優しく首を振った。
「――今、判断するのは、早すぎます。……もし、何らかの資質を継承していたとしても、それを、どう使うか、どう生きるかを決めるのは、エリアーナ様自身です」
「――自身、ですか」
「そなた様が、そうであったように」
◇ ◇ ◇
その言葉に、アズマリアは、深く頷いた。
自分自身が、《神癒》という力を、義務としてではなく、自らの意思で使うことを選んだように。もし、エリアーナが、何らかの力を継承していたとしても、それをどう生きるかは、彼女自身が、いつか、自分で選び取るべきことだった。
◇ ◇ ◇
「――焦らず、見守っていきましょう」
アズマリアの言葉に、ヴィルヘルムも、静かに同意した。
「ああ。……この子には、俺たちのような、複雑な事情に振り回されず、まっすぐに育ってほしいからな」
◇ ◇ ◇
その夜、揺り籠の中で眠るエリアーナを見つめながら、アズマリアは、静かに、これまでの日々を振り返っていた。
王都で過ごした孤独な十八年間。追放という絶望。辺境での出会いと再生。そして、世界を救った、あの激動の日々。
その先に、今、この小さな命が、確かに存在している。
◇ ◇ ◇
「――この子にも、いつか、教えてあげたいですね」
「何を」
ヴィルヘルムの問いに、アズマリアは、静かに、しかし確かな想いを込めて答えた。
「――価値とは、誰かと比べて決まるものではない、ということを」
◇ ◇ ◇
その言葉は、これまでのアズマリア自身の人生そのものが、辿り着いた、確かな答えだった。
小さな芽が、これから、どのように育っていくのか――その物語は、まだ、これからも、ゆっくりと紡がれていく。
辺境エルグラードに灯った、新しい光は、これからも、静かに、しかし確実に、次の世代へと、その輝きを繋いでいくことだろう。




