EP58. 生まれる命
深夜の辺境伯館、産室として整えられた一室に、緊迫した空気が満ちていた。
暖炉の炎が、赤々と燃え、部屋の中を暖かく照らしている。湯を沸かす鍋から立ち上る蒸気が、清潔な布の匂いと混ざり合い、部屋中に満ちていた。窓の外では、冷たい夜風が、木々の枝を揺らす音が、絶えず届いてくる。時折、アズマリアの、抑えきれない呻き声が、その静寂を破っていた。
「――もう少しです、アズマリア様! 頑張って!」
産婆の声が、力強く響く。
◇ ◇ ◇
部屋の外、廊下では、ヴィルヘルムが、落ち着かない様子で、行きつ戻りつを繰り返していた。
「――中に、入ってはいけないのか」
「男は、こういう場に不慣れなだけです。……大人しく、外で待っていてください」
傍らに立つハロルドが、いつもの仏頂面のまま、諭すように答えた。だが、その声には、彼なりの気遣いが、確かに滲んでいた。
◇ ◇ ◇
「――くっ、あぁ……!」
室内から響く、アズマリアの声が、一段と激しくなる。ヴィルヘルムの拳が、無意識のうちに、強く握りしめられていた。
「――何か、できることはないのか」
「今、あなたにできる、一番の助けは、信じて待つことです」
その言葉に、ヴィルヘルムは、深く息を吐くと、その場に立ち尽くした。
◇ ◇ ◇
室内では、アズマリアが、これまでの人生で経験したことのない、激しい痛みと向き合っていた。
これまで、幾度となく、他人の痛みを、《神癒》の力で癒やしてきた。だが、この痛みは、自分自身の力では、決して癒やすことができない。生命を生み出すという行為そのものが、力ではなく、彼女自身の体そのものによって、成し遂げられるべきものだった。
◇ ◇ ◇
「――もう一度、大きく息を吸って!」
産婆の声に、アズマリアは、渾身の力を込めた。
「――ぁああああ……!」
その声が、これまでで最も大きく、部屋中に響き渡った。
◇ ◇ ◇
そして――
静寂の中に、小さな、しかし確かな、命の泣き声が、響き渡った。
「――生まれました! おめでとうございます、女の子です!」
産婆の弾んだ声に、アズマリアは、涙を流しながら、息も絶え絶えに、その小さな体を見つめた。
◇ ◇ ◇
産婆が、丁寧に清めた赤子を、アズマリアの胸元に、そっと預けた。
白銀の、柔らかな産毛。まだ、しっかりとは開かない瞼の下に、微かに、赤みを帯びた瞳が覗いている。
「――こんにちは」
アズマリアは、震える声で、そっと囁いた。
「――ずっと、会いたかったです」
◇ ◇ ◇
その光景を見た産婆が、慌てて、廊下へと駆け出した。
「――ヴィルヘルム様! 生まれました! 元気な、女の子です!」
その知らせに、ヴィルヘルムは、しばらく、言葉を失っていた。
「――生まれ、たのか」
「はい! すぐに、お会いになりますか」
その問いに、彼は、何度も、深く頷いた。
◇ ◇ ◇
産室に足を踏み入れたヴィルヘルムは、アズマリアの胸元で、小さく身を寄せる赤子の姿を目にした瞬間、その場に、崩れるように膝をついた。
「――アズマリア」
「見てください、ヴィルヘルム。……私たちの、娘です」
その言葉に、ヴィルヘルムは、震える手で、そっと、赤子の小さな手に触れた。
◇ ◇ ◇
「――小さいな」
「はい。……でも、確かに、温かいです」
その温もりを確かめながら、ヴィルヘルムの目に、これまで見せたことのない、深い感動の涙が、静かに滲んでいった。
◇ ◇ ◇
「――名前は」
アズマリアの問いに、ヴィルヘルムは、少し考えたあと、静かに答えた。
「――エリアーナ、というのは、どうだろうか」
「エリアーナ……」
アズマリアは、その名を、静かに、そっと確かめるように呟いた。
◇ ◇ ◇
「――光を紡ぐ者、という意味を持つ、古い言葉だ。……あんたが紡いできたすべてのものを、この子にも、託せたらと思って」
その説明に、アズマリアの目に、また、新たな涙が滲んだ。
「――素敵な名前です。……エリアーナ」
◇ ◇ ◇
窓の外、夜明けの気配が、静かに近づいていた。
新しい命の誕生を祝うように、東の空が、淡い橙色に染まり始めている。その光景を、二人は、赤子と共に、静かに見つめていた。
◇ ◇ ◇
この夜、エルグラードに生まれた、小さな新しい命。
それは、アズマリアとヴィルヘルムの物語に、また一つ、新しい、かけがえのない章を、静かに書き加えることになった。
この子が、これから、どんな人生を歩んでいくのか――その物語は、まだ、始まったばかりだった。




