zeP56. 休むということ
治療院の朝、いつもより静かな空気が流れていた。
窓辺に置かれた薬草鉢から、乾いた葉の匂いが、ほのかに漂っている。外では、水路を流れる水の音に混じって、村人たちの、いつも通りの穏やかな話し声が聞こえていた。差し込む朝日が、診察台の上に横たわる布地を、柔らかく照らしている。だが、その柔らかさとは裏腹に、アズマリアの表情には、隠しきれない葛藤の色が浮かんでいた。
「――本当に、しばらく、治療を控えなければいけませんか」
◇ ◇ ◇
治療師の女性は、困ったように、しかし譲らない口調で答えた。
「はい。……あなた様の《神癒》は、他人の傷を、自らの体を通して受け止め、癒やす力です。妊娠中の体に、その負荷を続けさせるのは、危険が伴います」
「でも、村には、まだ、私を頼りにしてくださる方々が」
「その方々は、私や、他の治療師でも、ある程度は診られます。……ですが、そのお子様を、無事にお腹の中で育てられるのは、あなた様おひとりだけです」
◇ ◇ ◇
その正論に、アズマリアは、何も言い返せなかった。
王都で過ごした十八年間、そして辺境に来てからのこれまでの日々、「休む」ということを、彼女は、ほとんど知らずに生きてきた。誰かのために働き続けることこそが、自分の存在意義だと、どこかで思い込んでいたのかもしれない。
◇ ◇ ◇
そこへ、扉を開けて入ってきたのは、ヴィルヘルムだった。
「――話は聞いた」
「ヴィルヘルム……」
「治療を控えろと、言われたそうだな」
アズマリアは、気まずそうに視線を落とした。
◇ ◇ ◇
「――分かっている。あんたが、今も、誰かの役に立ちたいと思っていることは」
ヴィルヘルムは、静かに、しかし確かな優しさを込めて続けた。
「だが、今、あんたが一番、大切にすべきものは、何だ」
その問いに、アズマリアは、そっと自分の腹に手を当てた。
◇ ◇ ◇
「――この子、ですね」
「ああ」
ヴィルヘルムは、静かに頷いた。
「あんたは、これまで、ずっと誰かのために生きてきた。……それは、素晴らしいことだ。だが、今度ばかりは、あんた自身と、この子のために、少し立ち止まってもいいはずだ」
◇ ◇ ◇
その言葉に、アズマリアの目に、涙が滲んだ。
「――休むことが、こんなに難しいなんて、思いませんでした」
「らしいな、あんたは」
ヴィルヘルムは、優しく苦笑した。
「昔、辺境に来たばかりの頃も、無理をしてばかりいた。……その癖は、今も、そう簡単には抜けないらしい」
◇ ◇ ◇
その指摘に、アズマリアは、少し照れくさそうに笑った。
「――でも、あの頃の私には、休むことより、必要とされることの方が、大切だったんです」
「今は、違うのか」
「今は……」
アズマリアは、静かに、自分の腹に触れながら続けた。
◇ ◇ ◇
「今は、この子が、私を必要としてくれています。……それが、これまでのどんな『必要とされること』よりも、大切なことだと、分かるようになりました」
その答えに、ヴィルヘルムは、深く頷いた。
「――なら、決まりだな」
◇ ◇ ◇
その日から、アズマリアは、治療の第一線を、少しずつ、他の治療師たちに譲っていくことになった。
最初は、落ち着かない日々が続いた。誰かの役に立てていない、という焦燥感が、時折、胸の奥をよぎる。
「――お姉ちゃん、暇そうだね」
セーラが、くすくすと笑いながら、そんな彼女をからかった。
◇ ◇ ◇
「暇では、ありません。……ただ、少し、時間の使い方が、変わっただけです」
その言い訳に、セーラは、いたずらっぽく笑った。
「じゃあ、その時間で、あたしに、色々教えてよ。薬草の知識とか、治療の基本とか」
その提案に、アズマリアは、はっとしたように、目を見開いた。
◇ ◇ ◇
「――セーラ、治療師になりたいのですか」
「うん! お姉ちゃんみたいに、誰かを助けられる人になりたいから」
その言葉に、アズマリアの胸に、これまでにない、温かい感慨が込み上げてきた。
「――喜んで、教えます」
◇ ◇ ◇
その日から、アズマリアの新しい日々が、静かに始まった。
自ら癒やすことはできなくても、これまで積み重ねてきた知識と経験を、次の世代へと、丁寧に伝えていく。それもまた、これまでとは違う形の、確かな「役に立つ」ということだった。
◇ ◇ ◇
「――繋げる、というのは、こういうことでもあるんですね」
夕暮れ時、水路のほとりで、アズマリアは、静かにヴィルヘルムに語りかけた。
「力を、次の世代に、渡していくこと。……それもまた、《神癒》の在り方の一つなのかもしれません」
◇ ◇ ◇
その言葉に、ヴィルヘルムは、優しく微笑んだ。
「あんたらしい、気づき方だ」
夕陽に染まる水路の水面が、二人の影を、静かに映し出していた。
◇ ◇ ◇
休むこと、そして、伝えていくこと。
これまでとは違う形で、アズマリアは、自分自身の新しい在り方を、少しずつ、見つけ始めていた。
お腹の中で育つ、小さな命と共に、彼女の物語は、これからも、静かに、しかし確実に、紡がれていく。




