EP52. ブランシュ伯の館
隣領ブランシュ、その領主の館は、エルグラードのそれとは対照的な、古めかしい荘厳さを湛えていた。
石造りの壁には、代々の当主の肖像画が、隙間なく並んでいる。磨き抜かれた床は、蝋燭の炎を映して、鈍く光っていた。空気には、長い年月を経た木材と、古い羊皮紙の匂いが、深く染み付いている。窓の外からは、手入れの行き届いた庭園から、乾いた砂利を踏む足音が、規則正しく響いていた。
ヴィルヘルムは、応接間の椅子に座り、正面の人物と対峙していた。
◇ ◇ ◇
ブランシュ伯は、白髪交じりの髪を丁寧に撫でつけた、初老の男だった。仕立ての良い衣装に身を包み、その物腰には、長年培われた貴族らしい威厳が滲んでいる。だが、その目には、隠しきれない警戒と、ある種の焦りの色も見て取れた。
「――辺境伯自ら、お越しいただけるとは、光栄なことだ」
その口調には、皮肉めいた響きが混じっていた。
◇ ◇ ◇
「単刀直入に話させていただきたい」
ヴィルヘルムは、丁寧ながらも、率直な口調で切り出した。
「先日の書状、拝読いたしました。……エルグラードの発展が、貴領に不利益をもたらしているという点、真摯に受け止めております」
「――ほう」
ブランシュ伯は、少し意外そうに、眉を上げた。
◇ ◇ ◇
「反論されるかと思っていたが」
「反論する余地は、ないと思っております。……ですが、その上で、一つ、提案させていただきたい」
ヴィルヘルムは、懐から、一枚の書類を取り出した。
「エルグラードで培った、水路建設と、薬草栽培の技術。それを、貴領にも、共有させていただきたい」
◇ ◇ ◇
その提案に、ブランシュ伯は、しばらく黙り込んだ。
「――技術を、無償で提供する、というのか」
「はい。……独占するつもりは、ありません。この繁栄は、周辺の領地とも、分かち合うべきものだと考えております」
「――信じ難い話だな」
ブランシュ伯は、疑わしげに目を細めた。
◇ ◇ ◇
「貴殿らの立場からすれば、優位性を手放すことになるのだぞ。……何か、裏があるのではないか」
その問いに、ヴィルヘルムは、まっすぐに答えた。
「裏など、ありません。……ただ、私の妻が、そう提案しました。独り占めした繁栄は、いずれ、敵意を生む。分かち合った繁栄は、味方を増やす、と」
◇ ◇ ◇
「――そなたの妻とは。あの、《神癒》の聖女のことか」
「はい」
ブランシュ伯は、しばらく、何かを考え込むように、沈黙していた。
「――世界を救った聖女殿の、直々の考えというわけか」
◇ ◇ ◇
やがて、彼は、静かに、しかし確かな警戒を残したまま、続けた。
「――信用に足る話かどうか、まだ判断しかねる。だが」
「だが?」
「一度、この目で、確かめさせてもらいたい。……エルグラードの発展とやらを」
◇ ◇ ◇
その言葉に、ヴィルヘルムは、静かに頷いた。
「ぜひ、お越しください。……百聞は一見に如かず、と申しますから」
「――言うようになったな、辺境の成り上がりが」
その皮肉に、ヴィルヘルムは、苦笑しながら答えた。
「成り上がりで、結構です。……この土地には、成り上がりだからこそ、成し遂げられたものが、たくさんありますから」
◇ ◇ ◇
その返答に、ブランシュ伯の口元に、初めて、微かな笑みが浮かんだ。
「――嫌いではない、その気概」
交渉は、完全な合意には至らなかった。だが、対立から、対話への、確かな一歩が、ここに刻まれていた。
◇ ◇ ◇
館を辞するヴィルヘルムを、ブランシュ伯自らが、玄関先まで見送った。
「――近いうちに、必ず、お伺いする」
「お待ちしております」
その約束を胸に、ヴィルヘルムは、エルグラードへの帰路についた。
◇ ◇ ◇
辺境への道中、馬上のヴィルヘルムは、静かに、これまでの経緯を振り返っていた。
王国と魔族の和解。そして今、隣領との、新しい関係の始まり。アズマリアが体現してきた「分かち合う」という在り方が、少しずつ、しかし確実に、この世界に根を広げ始めている。
◇ ◇ ◇
エルグラードへ戻ったヴィルヘルムを、アズマリアが、笑顔で出迎えた。
「――お帰りなさい。どうでしたか」
「――完全な和解、とまではいかなかった。だが」
ヴィルヘルムは、静かに、確かな手応えを込めて答えた。
「近いうちに、伯自ら、この土地を訪れることになった」
◇ ◇ ◇
その報告に、アズマリアは、深く安堵した様子で微笑んだ。
「――良かった。少しずつでも、繋がりが生まれているんですね」
「ああ。……あんたの考え方が、また一つ、この世界を、静かに変え始めている」
その言葉に、アズマリアは、少し照れくさそうに、しかし確かな喜びを込めて頷いた。
◇ ◇ ◇
繁栄の裏に生まれた軋轢は、対話という、地道な一歩によって、新しい関係へと変わり始めていた。
この物語が示す「分かち合う」というテーマは、これから先も、様々な形で、この世界に、静かに広がっていくことだろう。
そして、その先には、まだ、多くの出会いと、新しい物語が、待ち受けている。




