EP51. 隣領の影
辺境伯領エルグラードの執務室、窓の外には、実り豊かな麦畑が、どこまでも広がっていた。
机の上には、山積みになった書類。羊皮紙の乾いた匂いと、インクの独特な香りが、部屋の中に満ちている。窓から差し込む午後の光が、埃の粒子を、ゆっくりと舞わせていた。遠くから、水路工事の槌音と、子供たちの遊ぶ声が、微かに響いてくる。
ヴィルヘルムは、届いたばかりの書状に目を通しながら、眉をひそめていた。
◇ ◇ ◇
「――どうかされましたか」
書類の整理を手伝っていたアズマリアが、その表情の変化に気づき、尋ねた。
「隣領、ブランシュ伯からの書状だ」
ヴィルヘルムは、苦い顔で、書状を机に置いた。
「――内容は」
「――エルグラードの急成長が、周辺領地の均衡を乱している、という、婉曲な抗議文だ」
◇ ◇ ◇
「均衡を、乱している……?」
アズマリアが、困惑した様子で問い返す。ヴィルヘルムは、深く息を吐いた。
「この数年で、うちには、難民も、商人も、旅人も、押し寄せてくるようになった。……その分、周辺の領地から、労働力や商機が流出している、という不満だろう」
◇ ◇ ◇
「私たちは、誰かを困らせようとしたわけでは」
「分かっている。だが、現実として、恩恵を受けられなかった側からすれば、面白くない話だろうな」
ヴィルヘルムは、椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「――繁栄には、必ず、その裏で、割を食う者が出る。それが、この世の理屈だ」
◇ ◇ ◇
「――ハロルド、ブランシュ伯について、何か知っているか」
ヴィルヘルムが尋ねると、部屋の隅に控えていたハロルドが、いつもの仏頂面のまま答えた。
「古くからの貴族で、伝統と格式を重んじる家系です。……辺境の成り上がりが、注目を集めることを、快くは思っていないでしょう」
「成り上がり、か」
ヴィルヘルムは、自嘲気味に笑った。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、フェリクスも交えた小さな会議が開かれた。
「――どう対応すべきでしょうか」
アズマリアの問いに、フェリクスが、慎重に答えた。
「感情的な反発を招かないよう、丁寧な対話が必要でしょう。……ですが、こちらが一方的に譲歩する必要は、ないはずです」
◇ ◇ ◇
「――一つ、提案があります」
アズマリアが、静かに切り出した。
「ブランシュ伯領にも、私たちの発展の恩恵を、分け合うことはできないでしょうか。……水路の技術や、薬草栽培のノウハウを、共有するとか」
その提案に、ヴィルヘルムが、目を見開いた。
◇ ◇ ◇
「――独占するのではなく、分け与える、ということか」
「はい。……独り占めした繁栄は、いずれ、妬みや敵意を生みます。でも、分かち合った繁栄なら、それは、味方を増やすことに繋がるはずです」
その考え方に、フェリクスが、感嘆したように頷いた。
「――《神癒》の在り方そのものですな。……独占するのではなく、繋げる力」
◇ ◇ ◇
「――だが、簡単な話じゃない」
ヴィルヘルムが、慎重に指摘した。
「技術を分け与えれば、こちらの優位性は薄れる。……それでも、構わないのか」
「優位性を保つことより、争いの芽を摘むことの方が、大切だと思います」
アズマリアの答えに、ヴィルヘルムは、しばらく考え込んだあと、静かに頷いた。
◇ ◇ ◇
「――分かった。あんたの提案通りに進めよう」
「では、ブランシュ伯への返書は」
「俺が、直接、会いに行く。……こういう話は、書状のやり取りだけでは、真意が伝わりにくい」
その決断に、ハロルドが、少し驚いたように眉を上げた。
◇ ◇ ◇
「辺境伯様自らが、ですか」
「ああ。……アズマリアの提案を、俺の言葉で、直接伝えたい」
その言葉に、アズマリアは、静かに、しかし確かな信頼を込めて微笑んだ。
◇ ◇ ◇
数日後、ヴィルヘルムは、少数の護衛を連れ、隣領ブランシュへと旅立った。
その背を見送りながら、アズマリアは、静かに祈るような気持ちで、彼の無事と、交渉の成功を願っていた。
◇ ◇ ◇
繁栄の裏に潜む、新たな軋轢。それは、この物語がまだ、平坦な幸福だけでは終わらないことを、静かに示していた。
人と人、領地と領地の間に生まれる、新しい形の課題。それに、どう向き合っていくのか――アズマリアとヴィルヘルムの物語は、まだ、その先に続いていく。




