EP50. 蘇る記憶
婚儀から、数ヶ月が過ぎていた。
王都大神殿、聖樹の間は、以前とは、明らかに違う気配を纏い始めていた。灰色に沈んでいた幹の表面に、うっすらと、緑がかった色合いが戻りつつある。差し込む光は、以前よりも柔らかく、どこか温かみを帯びていた。石床に伝わる温もりも、少しずつ、しかし確実に、戻り始めている。乳香の香りに混じって、微かに、新芽の匂いにも似た、瑞々しい気配が漂っていた。
その日も、アズマリアは、辺境から通いの祈りを捧げるため、聖樹の前に膝をついていた。
◇ ◇ ◇
「――今日は、いつもと違う感じがします」
アズマリアの呟きに、傍らに控えていたフェリクスが、興味深そうに身を乗り出した。
「違う、というのは」
「なんと言えばいいのか……聖樹の方から、何かを、伝えようとしているような」
◇ ◇ ◇
その言葉が終わるより早く、聖樹の幹から、これまでにない強さの光が、静かに溢れ出した。
「――これは!」
フェリクスが、思わず声を上げる。その光は、アズマリアを包み込むと同時に、彼女の脳裏に、これまで見たことのない光景を、鮮やかに映し出し始めた。
◇ ◇ ◇
それは、千年以上前――まだ、この聖樹が若木だった頃の記憶だった。
神々がまだこの地に留まっていた時代、一人の巫女が、この聖樹の前で、祈りを捧げている。白銀の髪、赤い瞳――その姿は、驚くほど、アズマリア自身によく似ていた。
「――これは、誰?」
◇ ◇ ◇
記憶の中の巫女は、静かに、聖樹に向かって語りかけていた。
『どうか、この世界に刻まれた傷が、いつか、癒える日が来ますように』
その祈りに応えるように、聖樹の梢が、淡く輝く。それは、アズマリアが、毎晩繰り返してきた、あの祈りと、まったく同じ光景だった。
◇ ◇ ◇
記憶が途切れ、アズマリアは、はっと我に返った。全身に、じんわりと汗が滲んでいる。
「――今のは」
「アズマリア様、大丈夫ですか」
フェリクスが、慌てて駆け寄る。アズマリアは、震える声で、今見た光景を説明した。
◇ ◇ ◇
「――千年前の、《神癒》の巫女……」
フェリクスは、震える手で、羊皮紙に記録を取りながら呟いた。
「もしや、そなた様は、その方の、生まれ変わりなのでは」
「分かりません。……でも、あの祈りの言葉は、確かに、私が毎晩捧げてきたものと、同じでした」
◇ ◇ ◇
その報告を受け、王都に滞在していたアロセールが、興味深そうに考察を述べた。
「――生まれ変わり、というよりは。《神癒》という力そのものが、世代を超えて、同じ願いを紡ぎ続けている、という方が、理論的には近いかもしれない」
「同じ願いを、紡ぎ続ける……?」
「ああ。……力そのものに、意志のようなものが宿っているとすれば、それが、その時代ごとに相応しい器を選び、顕現している、とも考えられる」
◇ ◇ ◇
その考察に、アズマリアは、複雑な感慨を覚えた。
「――では、私も、いつか、誰かに、この力を、引き継ぐことになるのでしょうか」
その問いに、アロセールは、しばらく考え込んだあと、静かに答えた。
「それは、誰にも分からない。……だが、もしそうなったとしても、それは、悲しむべきことではないだろう。願いが、次の誰かに、確かに受け継がれていく、ということなのだから」
◇ ◇ ◇
その夜、辺境へ戻ったアズマリアは、ヴィルヘルムに、今日の出来事を話した。
「――千年前の巫女、か」
ヴィルヘルムは、静かに耳を傾けたあと、少し考えるように呟いた。
「その巫女も、あんたと同じように、蔑まれたり、苦しんだりしたのだろうか」
「分かりません。……でも、もし、そうだったとしたら」
◇ ◇ ◇
アズマリアは、静かに、しかし確かな想いを込めて続けた。
「その方の願いを、少しでも、私が形にできたのなら。……それは、とても、意味のあることだと思います」
その言葉に、ヴィルヘルムは、優しく彼女の肩を抱き寄せた。
「――あんたらしい考え方だ」
◇ ◇ ◇
聖樹の記憶が明かした、千年前の巫女の存在。それは、アズマリア自身の物語に、新たな深みと、そして、まだ解き明かされていない謎を、静かに投げかけていた。
自分という存在が、どこから続き、どこへ向かっていくのか――その答えは、まだ、完全には見えていない。
だが、少なくとも、一つだけ、確かなことがあった。
この土地で、この人と共に、これから紡いでいく日々こそが、今のアズマリアにとって、何よりも大切な、確かな現実だということ。
聖樹の記憶に眠る、まだ見ぬ歴史の続きは、これからも、ゆっくりと、明らかにされていくことだろう。




