EP46. 交易地の開放
かつて国境と呼ばれた土地に、新しい市場が産声を上げていた。
まだ真新しい木組みの露店が、両側に立ち並んでいる。人間側の商人が持ち込んだ織物や香辛料の匂いと、魔族側が持ち寄った、見慣れぬ鉱石や薬草の匂いが、初めて、同じ空気の中で混ざり合っていた。呼び込みの声、値切り交渉の掛け合い、そして、これまで敵同士だったはずの種族が交わす、ぎこちない、それでいて確かな言葉のやり取り。乾いた地面を踏みしめる、様々な足音が、絶えず響いていた。
アズマリアは、その様子を、市場の入口に設けられた見張り台から、見守っていた。
◇ ◇ ◇
「――思っていたより、順調ですね」
「ああ。だが、油断はできない」
傍らに立つヴィルヘルムが、周囲を見渡しながら、慎重な口調で答えた。
「まだ始まったばかりだ。小さな衝突が、いつ大きな諍いに発展するか分からない」
その言葉通り、市場の一角から、不穏な声が上がり始めた。
◇ ◇ ◇
「――おい、そいつを見ろ! 魔族の商人が、値をふっかけてやがる!」
人間側の商人の一人が、大声で騒ぎ立てている。それに応じるように、魔族側の商人も、語気を強めた。
「ふっかけてなどおらぬ。適正な値を、提示しているだけだ」
「信用できるか、化け物風情が!」
その一言に、周囲の空気が、一気に張り詰めた。
◇ ◇ ◇
「――まずいな」
ヴィルヘルムが、即座に見張り台を降りようとする。だが、それより早く、アズマリアが、静かに市場の中央へと歩み出ていた。
「――どうか、落ち着いてください」
その声に、言い争っていた両者が、はっとしたように振り返った。
◇ ◇ ◇
「アズマリア様……」
人間側の商人が、気まずそうに視線を逸らした。アズマリアは、静かに、しかし確かな公平さを込めて、両者に向き直った。
「値の交渉は、双方が納得するまで、丁寧に行うべきものです。……ですが、種族への蔑称は、この場では、決して許されません」
◇ ◇ ◇
その言葉に、商人は、決まり悪そうに頭を下げた。
「――すみません、つい、口が滑りました」
「分かっていただければ、それで結構です」
アズマリアは、静かに微笑むと、魔族側の商人へも、目を向けた。
「――値については、私が仲介いたします。双方にとって、納得のいく形を、一緒に探しましょう」
◇ ◇ ◇
その場は、なんとか収まった。だが、アズマリアの表情には、隠しきれない懸念が浮かんでいた。
「――こういうことが、これからも続くでしょうね」
「ああ」
ヴィルヘルムが、静かに頷いた。
「千年分の不信は、一朝一夕には消えない。……だが、こうして、小さな衝突を、その都度、丁寧に解いていくことでしか、本当の意味での和解には、辿り着けないんだろう」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、見張り台の下に、一人の若い男が、こっそりと近づいてきた。
粗末な身なりに、どこか思い詰めたような表情。アズマリアが声をかけると、彼は、少し躊躇いながら、口を開いた。
「――アズマリア様、少し、よろしいでしょうか」
◇ ◇ ◇
「私は、北方戦線で、兄を亡くしました」
男は、震える声で語り始めた。
「魔族との戦いで、命を落としたんです。……頭では、あなた様の言う『和解』が正しいと、分かっています。でも」
「――でも、心が、追いついていない」
アズマリアの言葉に、男は、深く頷いた。
◇ ◇ ◇
「それは、当然のことです」
アズマリアは、静かに、しかし真摯な声で答えた。
「傷は、頭で理解しただけでは、癒えません。……時間が、必要です」
「アズマリア様の力でも、心の傷は、癒やせないのですか」
その問いに、アズマリアは、少し寂しげに首を振った。
◇ ◇ ◇
「私の力は、体の傷や、土地の穢れは、癒やせます。……でも、大切な人を失った悲しみそのものは、癒やすことができません。それは、あなた自身が、時間をかけて、向き合っていくべきものだと思います」
その正直な答えに、男は、しばらく黙り込んでいた。
「――そうですか」
やがて、彼は、小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
「無理に、和解しろとは、言いません。……でも、もし、いつか、少しでも、その気持ちが和らいだときには」
アズマリアは、静かに続けた。
「この場所が、あなたの、新しい一歩の助けになれば、嬉しいです」
その言葉に、男は、深く頭を下げると、静かに、その場を去っていった。
◇ ◇ ◇
夕暮れの光の中、アズマリアは、遠ざかる男の背中を、静かに見つめていた。
和平とは、決して、一度の儀式や、一枚の書面で成し遂げられるものではない。一人一人の心に、時間をかけて、丁寧に寄り添っていく、その積み重ねの先にしか、本当の平和は訪れない。
その現実の重さを、アズマリアは、改めて、噛み締めていた。
◇ ◇ ◇
「――大変な役目を、引き受けたものだな」
ヴィルヘルムが、静かに歩み寄ってきた。
「はい。……でも」
アズマリアは、静かに微笑んだ。
「これも、私が選んだ道です。……一つ一つ、丁寧に、向き合っていきます」
その決意を胸に、二人は、夕暮れの市場を、静かに見渡していた。
この土地に芽生えた、小さな、しかし確かな和解の芽が、これから先、どのように育っていくのか――その物語は、まだ、始まったばかりだった。




