EP45. 境界の卓
王国と魔族領を隔てる、かつての国境。
その中間地点に、急ごしらえの円卓が設けられていた。周囲には、双方の陣営が距離を置いて対峙している。かつて《黒界結界》と呼ばれた防壁の跡には、今、真新しい白い天幕が張られ、風にはためいていた。焦げていたはずの大地には、ぽつぽつと若草が芽吹き始めている。土の匂いに混じって、双方が持ち寄った、異なる香草の匂いが、奇妙に混ざり合っていた。緊張した空気の中、時折、遠くの鳥の声だけが、場違いなほど、のどかに響いてくる。
円卓の一方には、国王グランツ、大神官グレゴリウス、そして数名の大臣たち。もう一方には、魔王ガルシュタインと、その側近たちが座していた。
◇ ◇ ◇
「――アズマリア様に、立会人をお願いしたい」
ガルシュタインの提案に、グランツも、静かに頷いた。
「異存はない。……いや、そなたにこそ、この場に立ち会ってもらう資格がある」
その言葉に、アズマリアは、円卓の脇に設けられた席へと、静かに腰を下ろした。隣には、ヴィルヘルムが控えている。
◇ ◇ ◇
交渉は、当初、決して順調とは言えなかった。
「――千年の争いを、一朝一夕に水に流せというのか」
人間側の大臣の一人が、苦々しげに口を開いた。
「我らの祖先の多くが、魔族の手によって命を落とした。その事実は、揺るがぬ」
その言葉に、魔族側の一人が、鋭く反論した。
「我らもまた、多くの同胞を失った。そちらの都合だけで語られては、たまらぬ」
◇ ◇ ◇
険悪になりかけた空気を、静かに割ったのは、アズマリアだった。
「――どちらの痛みも、本物です」
その一言に、円卓を囲む全員の視線が、彼女へと集まった。
「私は、両方の傷を、この目で見て、この手で癒やしてきました。……だからこそ、言えます。どちらか一方だけが正しい、という話ではないのです」
◇ ◇ ◇
「では、どうしろというのだ」
人間側の大臣が、苛立ちを隠さずに問う。アズマリアは、静かに、しかし確かな芯を持って答えた。
「過去の傷を、なかったことにする必要はありません。……ただ、これから先、同じ過ちを繰り返さないための、新しい関係を築くことはできるはずです」
◇ ◇ ◇
その言葉に、ガルシュタインが、静かに頷いた。
「――我らからも、一つ、提案がある」
彼は、懐から、一枚の古びた地図を取り出した。
「かつて《黒界結界》のあった、この国境地帯。……ここを、人間と魔族、双方が自由に行き来できる、中立の交易地として、開放してはどうか」
◇ ◇ ◇
その提案に、人間側の大臣たちの間で、ざわめきが広がった。
「中立の、交易地……」
「前例のない話だ」
困惑の声が漏れる中、グレゴリウスが、静かに口を開いた。
「――前例がないのは、当然でしょう。これまで、そのような発想自体、誰も持ち得なかったのですから」
その言葉に、大臣たちは、しばし沈黙した。
◇ ◇ ◇
「アズマリア様の力によって、この地の穢れは、既に大きく薄れつつあります」
フェリクスが、傍らで記録を取りながら、補足した。
「浄化の進行速度から鑑みるに、数年のうちには、この一帯は、十分に人が住める土地へと戻るでしょう」
その報告に、グランツが、深く考え込むように、顎に手を当てた。
◇ ◇ ◇
「――一つ、条件を出させてほしい」
グランツが、慎重に切り出した。
「交易地の運営には、王国と魔族領、双方の監督者を置く。そして……アズマリア殿にも、可能な範囲で、その調整役を担っていただきたい」
その申し出に、アズマリアは、少し驚いたように、目を見開いた。
◇ ◇ ◇
「私で、よろしいのですか」
「そなた以上に、両者から信頼を得ている者は、この世界のどこにもいまい」
グランツの言葉に、ガルシュタインも、深く頷いた。
「異存はない。……いや、そなたにこそ、その役目を担ってほしい」
◇ ◇ ◇
その提案に、アズマリアは、傍らのヴィルヘルムへと、視線を向けた。
彼は、静かに、しかし確かな信頼を込めて頷いた。
「――あんたが望むなら、俺も、力になる。辺境伯領は、ちょうど、この国境地帯にも近い」
その言葉に、アズマリアは、静かに微笑んだ。
「――お引き受けします」
◇ ◇ ◇
その日、境界の卓を囲んだ人々の間に、これまでにない、確かな合意の空気が生まれていた。
千年続いた対立は、まだ、完全には消え去っていない。互いへの不信も、簡単には拭いきれないだろう。
だが、この日、確かに、新しい関係への、最初の一歩が踏み出された。
◇ ◇ ◇
交渉を終え、天幕を後にするアズマリアの背に、ガルシュタインが、静かに声をかけた。
「――アズマリア様。一つ、感謝を伝えさせてほしい」
「何でしょうか」
「そなたが、この世界に生まれてくれたこと。……それ自体が、我らにとって、何よりの奇跡だ」
◇ ◇ ◇
その言葉に、アズマリアは、深く頭を下げた。
「これからも、よろしくお願いします、ガルシュタイン様」
夕暮れの光の中、境界に立つ二人の影が、長く伸びていた。
人間と魔族、それぞれの未来を繋ぐ、新しい役割を背負ったアズマリアの物語は、まだ、その先に続いていく。
辺境エルグラードでの日々と、この新しい役目――その両方を、これからどう紡いでいくのか。彼女の歩みは、まだ、始まったばかりだった。




