EP44. 知らせ
治療院の朝は、いつも通り、鶏の声と共に始まった。
窓から差し込む朝日が、薬草を煮出す湯気を、淡く照らしている。乾いた薬草の匂い、焼きたてのパンの匂い、そして、外から漂ってくる、澄んだ水路の水の匂い。いつもと変わらない、穏やかな辺境の朝だった。だが、その空気の中に、今日はどこか、浮き立つような気配が混じっている。
「――お姉ちゃん、なんか、今日、機嫌良さそうだね」
薬草を棚に並べながら、セーラが、不思議そうに首を傾げた。
◇ ◇ ◇
「そう、見えますか」
「うん! いつもより、頬っぺた、赤いし」
その指摘に、アズマリアは、思わず頬に手を当てた。昨夜のことを思い出すと、今も、じんわりと胸の奥が温かくなる。
「――実は、皆さんに、お伝えしたいことがあります」
その言葉に、セーラが、目を輝かせた。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、治療院の前の広場には、村の主だった人々が、集められていた。ハロルドが、腕を組んだまま、いつもの仏頂面で立っている。フィーが、ひらひらとアズマリアの肩の周りを飛び回り、白煌が、静かにその足元に寄り添っていた。
「――皆さんに、報告があります」
アズマリアの隣に、ヴィルヘルムが並び立った。焦げ茶の髪を風になびかせ、その表情には、隠しきれない緊張と、それ以上の喜びが浮かんでいる。
◇ ◇ ◇
「俺とアズマリアは、これから、夫婦として、共に生きていくことを決めた」
その一言に、広場中から、大きな歓声が上がった。
「わああああ! やった、やったー!」
真っ先に叫んだのは、セーラだった。飛び跳ねながら、隣の子供たちと手を取り合っている。
◇ ◇ ◇
「――おめでとうございます、ヴィルヘルム様」
ハロルドが、珍しく、口元を緩めながら頭を下げた。
「正直、遅すぎるとさえ思っておりましたが」
「余計な一言だ」
ヴィルヘルムが、苦笑しながら答える。その気安いやり取りに、村人たちの間から、笑いが起きた。
◇ ◇ ◇
フィーが、アズマリアの頬に、ぴたりと寄り添った。
『やっとだね! ずっと、そわそわしてるの、あたし、気づいてたよ』
「――気づかれて、いましたか」
『当たり前じゃない。あたし、精霊だよ? 想いの機微には、敏感なんだから』
その言葉に、アズマリアは、思わず頬を赤らめた。
◇ ◇ ◇
白煌が、静かに、しかし確かな重みを持った声で、頭の中に語りかけてきた。
『――祝福しよう。そなたたちの結びつきが、これから先も、この土地を照らし続けることを』
その言葉に、アズマリアは、深く感謝の気持ちを込めて、白銀の毛並みに、そっと触れた。
◇ ◇ ◇
その夜、村を挙げての祝宴が、再び開かれた。
篝火が焚かれ、持ち寄られた料理が並ぶ。誰もが、これまでにない笑顔で、この慶事を祝っていた。
「――正式な婚儀は、いつ頃を考えている?」
村長が、酒を片手に、興味津々といった様子で尋ねた。
◇ ◇ ◇
「まだ、これからです」
アズマリアは、少し照れくさそうに答えた。
「王国との和平交渉、魔族領の復興、そして……この辺境の発展も、まだまだこれからですから」
「そうか。……だが、あまり先延ばしにしすぎるなよ」
村長の忠告に、周囲から、微笑ましい笑い声が起きた。
◇ ◇ ◇
その頃、王都からは、この知らせを受けた、意外な人々からの祝いの言葉も届いていた。
エレオノーラからは、明るい筆致で綴られた祝福の手紙。「絶対に、結婚式には呼んでよね! 盛大な花火、あたしが担当するから!」という一文に、アズマリアは思わず笑ってしまった。
アロセールからは、簡潔ながらも、確かな祝福の言葉。「そなたの幸福を、心から願う」
リザからは、少し不器用な字で、「幸せになれ。あたしたちの分まで」と綴られていた。
◇ ◇ ◇
その手紙の束を眺めながら、アズマリアは、静かに、深い感慨を覚えていた。
王都で過ごした十八年間、これほど多くの人々から、心からの祝福を受けることになるとは、想像すらしたことがなかった。
「――幸せ、ですね」
小さく呟いたその言葉に、隣に座るヴィルヘルムが、静かに頷いた。
◇ ◇ ◇
「――これから、忙しくなるな」
ヴィルヘルムが、少し困ったように、しかし確かな期待を滲ませて呟いた。
「和平交渉、辺境の発展、そして、婚儀の準備。……あんたのことだ、どうせ、また無理をするんだろう」
「気をつけます」
「――信じてないぞ、その返事」
その軽口に、アズマリアは、思わず声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
夜が更け、祝宴の灯りが、静かに、辺境の空へと立ち上っていく。
この土地に流れ着いた、あらゆる人々、あらゆる存在が、今、一つの温かな輪の中に、確かに繋がっていた。
だが、この幸福な日々の先にも、まだ、いくつもの試練と、それを超えた先にある、さらなる喜びが、静かに待ち受けていた。
この物語が、本当の意味での結末を迎えるまで、まだ、もう少しの時間が必要だった。




