EP42. 帰る場所
辺境エルグラードへと続く街道に、見慣れた馬車の一団が、土埃を上げながら近づいていた。
道の両脇には、たわわに実った麦穂が、初秋の風に揺れている。さわさわと乾いた音を立てるその穂波は、王都からの長い旅の疲れを、少しずつ和らげていくようだった。空気には、収穫を控えた麦の香ばしい匂いと、遠く水路から漂う、水のひんやりとした気配が混じっている。街道の脇、澄んだ小川のせせらぎが、耳に心地よく響いていた。
その光景を、アズマリアは、馬車の窓から、食い入るように見つめていた。
◇ ◇ ◇
「――変わらない、ですね」
「いや、変わってるさ。あんたが留守にしていた間にも、水路はさらに延びたし、孤児院の建物も完成に近づいている」
ヴィルヘルムが、少し得意げに答えた。
「それでも、この土地の温かさは、変わらない、という意味です」
アズマリアの答えに、ヴィルヘルムは、静かに目を細めた。
◇ ◇ ◇
村の入口が見えてきたとき、そこには、これまでにない数の人々が、集まっているのが見えた。
「――お姉ちゃん!」
真っ先に駆け出してきたのは、セーラだった。栗色の髪を振り乱しながら、まっすぐに馬車へと駆け寄ってくる。
馬車が止まるより早く、アズマリアは、扉を開けて飛び降りていた。
◇ ◇ ◇
「セーラ!」
「お姉ちゃん、お帰りなさい……! ずっと、ずっと心配してた……!」
セーラは、アズマリアの胸に飛び込むと、堪えきれずに泣き出した。アズマリアは、その小さな体を、しっかりと抱きしめた。
「ただいま、セーラ。……約束、守りましたよ」
「うん……! うん……!」
◇ ◇ ◇
「――アズマリア様」
声をかけてきたのは、村長だった。皺だらけの顔に、深い安堵の色が浮かんでいる。
「世界が救われたと、旅の商人から聞き及んでおりました。……あなた様のおかげです」
「いいえ。皆さんの祈りがあったからこそです」
その答えに、村長は、静かに、しかし深く頭を下げた。周囲に集まった村人たちも、口々に、感謝と歓迎の言葉を口にしていく。
◇ ◇ ◇
「――ハロルド、疲れは出ていないか」
ヴィルヘルムの声に、ハロルドが、いつもの仏頂面で頷いた。
「問題ありません。……それより、先ほど届いた伝令によれば、留守中の防備に多少の綻びがあったとのことです。詠唱式の再確認が必要かと」
「相変わらずだな、お前は」
ヴィルヘルムが、苦笑しながら答える。その気安いやり取りに、アズマリアは、思わず頬を緩めた。
◇ ◇ ◇
肩の上に、ひらりと、フィーが舞い降りた。
『ただいま、辺境!』
その足元に、白煌が、静かに寄り添う。
『――我が魂も、ようやく落ち着く場所へ戻った心地だ』
精霊や聖獣たちにとっても、この土地は、既に、かけがえのない帰る場所となっていた。
◇ ◇ ◇
その夜、村では、ささやかな祝宴が開かれた。
治療院の前の広場には、持ち寄られた料理が並び、篝火が焚かれている。焼けたパンの匂い、煮込み料理の湯気、そして、久しぶりに聞く、賑やかな笑い声。セーラが、他の子供たちと一緒に、はしゃぎながら走り回っている。
◇ ◇ ◇
「――今夜は、無礼講だ」
ヴィルヘルムが、村人たちに酒を振る舞いながら、珍しく上機嫌に告げた。
「世界が救われたことを、そして、アズマリアが、この土地へ帰ってきてくれたことを、皆で祝おう」
その言葉に、大きな歓声が上がる。
◇ ◇ ◇
少し離れた場所で、その光景を見つめながら、アズマリアは、静かに、深い幸福感に包まれていた。
王都で過ごした十八年間、自分にとっての「居場所」とは、義務によって与えられるものだった。だが今、目の前に広がるこの光景は、誰かに命じられたものでも、義務でもない。自分自身が選び取った、確かな居場所だった。
◇ ◇ ◇
祝宴が落ち着いた頃、ヴィルヘルムが、そっとアズマリアに声をかけた。
「――少し、いいか」
「はい」
二人は、賑わう広場を離れ、水路のほとりへと歩いていった。夜空には、満天の星が輝いている。澄んだ水の音だけが、静かに響いていた。
◇ ◇ ◇
「――前に、言いかけていたこと」
ヴィルヘルムが、少し緊張した面持ちで切り出した。
「あの、王都で聞いてくれと言ったこと」
「はい」
アズマリアの胸が、微かに高鳴った。
「今、聞かせていただけるんですか」
「――ああ」
ヴィルヘルムは、深く息を吸い込むと、まっすぐに、アズマリアを見つめた。
◇ ◇ ◇
その言葉が紡がれる、その瞬間――
夜空に、一筋の流れ星が、静かに輝きながら、流れていった。
まるで、この物語の、新たな一頁が、今、静かに開かれようとしているかのように。
その先に紡がれる言葉を、まだ、ここに記すには、早すぎるのかもしれない。
だが、確かなことが一つだけある。
この夜、辺境エルグラードに灯った温かな光は、これからも、ずっと、この土地を照らし続けていくということを。




