EP39. 目覚めの朝
柔らかな日差しが、天幕の隙間から差し込んでいた。
魔王城の一角、急ごしらえで設けられた休息所は、崩れかけた石壁に、応急の布と毛皮が敷き詰められただけの、簡素な造りだった。それでも、外の荒涼とした景色とは対照的に、そこには不思議な穏やかさが満ちている。風に揺れる布が立てる、規則正しい音。どこかから漂ってくる、煮込まれたスープの匂い。そして、久しぶりに感じる、清涼な空気の匂い――魔族領を長く覆っていた瘴気は、もう、どこにも感じられなかった。
アズマリアは、ゆっくりと瞼を開けた。
◇ ◇ ◇
「――目が、覚めたか」
真っ先に気づいたのは、傍らに座り込んでいたヴィルヘルムだった。焦げ茶の髪は乱れ、目の下には濃い隈が刻まれている。彼が、どれほどの時間、そこに座り続けていたのか、その様子から容易に想像がついた。
「私……どれくらい、眠っていたのですか」
「三日だ」
その答えに、アズマリアは、思わず身を起こそうとした。だが、体に力が入らず、すぐに、ヴィルヘルムに支えられる形になった。
◇ ◇ ◇
「無理をするな。魔力残滓どころの話じゃない。あんたの体は、限界のさらに向こう側まで、酷使されていた」
その声には、隠しきれない安堵と、それでもなお消えない心配が滲んでいた。
「――皆さんは」
「無事だ。エレオノーラたちも、フィーも、白煌も。……多少、消耗はしているが、命に別状はない」
その言葉に、アズマリアは、深く息を吐いた。
◇ ◇ ◇
「世界は……」
「あんたが見た通りだ。……いや、あんたはまだ、見ていないか」
ヴィルヘルムは、少し困ったように微笑むと、天幕の入り口の布を、そっと開いた。
そこに広がっていたのは、これまでとはまったく違う、魔族領の風景だった。
◇ ◇ ◇
黒く腐っていたはずの大地に、若草の緑が、点々と芽吹き始めている。淀んでいたはずの空は、澄んだ水色を取り戻し、遠くには、これまで一度も見たことのない、白い雲が浮かんでいた。
「――嘘、みたい」
アズマリアの声が、感動に震えた。
「本当に、変わったんですね」
「ああ。……あんたが、変えたんだ」
◇ ◇ ◇
そこへ、天幕の外から声がかかった。
「――お目覚めか、アズマリア様」
顔を出したのは、ガルシュタインだった。長く沈んでいた疲労の色は、以前より、幾分か和らいでいるように見えた。
「体調は、いかがですか」
「まだ、本調子とは言えませんが……大丈夫です。それより」
アズマリアは、まっすぐにガルシュタインを見た。
「魔族領の様子は、どうですか。皆さんは」
◇ ◇ ◇
「――信じられぬほどの回復だ」
ガルシュタインは、静かに、しかし確かな喜びを込めて答えた。
「虚無に蝕まれ続けていた同胞たちが、次々と、本来の姿を取り戻している。土地の穢れも、日に日に薄れている。……これほどの結果を、そなた一人が成し遂げたとは、今も信じ難い」
「一人じゃありません。皆さんの力があったからです」
その答えに、ガルシュタインは、静かに目を細めた。
◇ ◇ ◇
「――一つ、伝えておきたいことがある」
彼の表情が、少し引き締まった。
「これから、人間と魔族との間で、正式な和平交渉を進めたいと考えている。千年続いた対立を、すぐに完全な信頼へと変えることは、できないだろう。……だが、その第一歩を、踏み出したい」
「――ぜひ」
アズマリアは、迷わず答えた。
「私にできることがあれば、何でも協力します」
◇ ◇ ◇
「そなたには、もう十分すぎるほどの働きをしてもらった」
ガルシュタインは、静かに首を振った。
「これから先の道は、我らと、そして人間の指導者たちが、自らの足で歩んでいかねばならぬ。……そなたは、そなた自身の人生を、生きるべきだ」
その言葉に、アズマリアは、はっとしたように、傍らのヴィルヘルムを見た。
◇ ◇ ◇
ヴィルヘルムは、少し照れくさそうに、視線を逸らした。
「――何だ」
「いえ、その……」
アズマリアの脳裏に、儀式の直前、彼が言いかけた言葉が蘇った。
『終わったら、また、話す』
「あの、ヴィルヘルム。……前に、言いかけていたこと」
◇ ◇ ◇
その問いに、ヴィルヘルムの頬が、微かに赤らんだ。
「――今は、まだいい。あんたの体調が、完全に戻ってからだ」
「気になります」
「……我慢しろ」
その、いつになく歯切れの悪いやり取りに、ガルシュタインが、珍しく、口元を緩めた。
「――邪魔者は、退散するとしよう」
◇ ◇ ◇
ガルシュタインが立ち去った後、天幕の中には、しばしの静寂が流れた。
アズマリアは、澄んだ空を見上げながら、静かに思う。世界は、確かに救われた。だが、自分自身の物語は、まだ、その先に続いている。
「――帰りましょう」
小さく呟いたその言葉に、ヴィルヘルムが、驚いたように振り返った。
◇ ◇ ◇
「帰る、というのは」
「エルグラードに。……セーラも、皆も、待っていますから」
その答えに、ヴィルヘルムは、深く、しかし確かな安堵を滲ませて頷いた。
「――ああ、帰ろう」
その一言に込められた温かさが、アズマリアの胸に、これまでにない、静かな幸福感をもたらしていた。
◇ ◇ ◇
だが、辺境に戻るその前に、まだ、片付けなければならないことがあった。
王都――かつて彼女を追放した、あの場所からの、避けては通れない呼びかけが、静かに待ち受けていた。




