EP.38 満ちる光
魔族領、かつて黒く腐り果てていた大地。
その地平線の彼方から、これまで誰も目にしたことのない光が、静かに満ちていくのが見えた。淀んだ紫色だった空が、初めて、澄んだ青みを取り戻していく。乾いた大地に、これまでどれだけ雨が降っても染み込まなかったはずの水分が、ゆっくりと、しかし確実に、戻り始めていた。腐敗臭に代わって、微かに、土そのものの、瑞々しい匂いが漂い始める。遠く、鳥の声が――この地では長らく聞かれることのなかった、生命の気配を告げる音が、静かに響き始めていた。
◇ ◇ ◇
国境の荒野で、あの苦しげにうずくまっていた魔物たちの群れが、一斉に、光を浴びていた。
黒く爛れていた体表が、見る間に癒えていく。歪んでいた輪郭が、本来あるべき、穏やかな獣の姿へと戻っていった。長年、苦痛にひび割れていた呻き声が、やがて、安堵に満ちた、静かな息遣いへと変わっていく。
「――ようやく」
どこからともなく、声にならない声が、風に乗って響いた気がした。千年間、虚無に蝕まれ続けてきた同胞たちの、魂の底からの安堵だった。
◇ ◇ ◇
辺境エルグラード、村の広場。
夜通し祈りを捧げていた人々の頭上、突如として、これまで見たこともない光の帯が、空を横切っていった。
「――お姉ちゃん!」
セーラが、思わず立ち上がり、空を見上げた。栗色の髪が、光を浴びて、金色に輝いて見える。
「アズマリア様の、力……?」
村長が、震える声で呟いた。誰もが、その光の意味を、はっきりと理解していたわけではない。だが、その温かさだけは、確かに、皆の胸に伝わっていた。
◇ ◇ ◇
「――皆、感じるか」
村長の声に、集まった人々が、次々と頷いた。
「あったかい……」
「まるで、抱きしめられてるみたいだ」
その光を浴びた者たちの間で、これまで抱えていた小さな傷や、癒えきらなかった疲労が、静かに和らいでいくのが分かった。詠唱を伴わない、ただの「気配」だけの奇跡が、確かに、そこにあった。
◇ ◇ ◇
王都カルディエラ、焼け跡となった街の一角。
瓦礫の中で身を寄せ合っていた人々の上にも、同じ光が降り注いでいた。
「――なんだ、この光は」
老兵の一人が、涙を流しながら空を見上げた。かつて、アズマリアを「治療係」と呼んで軽んじてきた、あの北方戦線の兵士だった。
「まさか、あの方が……」
その先の言葉を、彼は続けられなかった。ただ、込み上げてくる感情のままに、深く頭を垂れることしかできなかった。
◇ ◇ ◇
魔王城、玉座の間。
光の奔流が、少しずつ、その勢いを落ち着けていく。渦巻いていた《虚無》の気配は、もはや、跡形もなく消え去っていた。封印紋様の中心には、ただ、静かな、澄んだ空気だけが残されている。
「――終わった、のか」
ハロルドが、呆然と呟いた。
◇ ◇ ◇
アズマリアは、ヴィルヘルムの腕の中で、ゆっくりと目を開けた。全身に、これまで感じたことのない、深い疲労が広がっている。だが、その奥に、確かな充足感もあった。
「――終わり、ました?」
「ああ。……終わった」
ヴィルヘルムの声は、これまでにないほど、優しかった。
「あんたが、やり遂げた」
「私だけじゃ、ありません。……皆さんが、一緒だったから」
◇ ◇ ◇
その言葉に、周囲を取り囲んでいた、エレオノーラ、アロセール、リザ、フィー、白煌、そしてガルシュタインたちが、それぞれの表情で、静かに頷いた。
「――あたしたちも、やり遂げたんだ」
エレオノーラが、涙を拭いながら、微笑んだ。
「初めて、聖女として、正しいことができた気がする」
アロセールが、静かに、しかし確かな満足を滲ませて呟いた。
◇ ◇ ◇
ガルシュタインは、崩れかけた玉座の間の中央に膝をつき、両手で顔を覆っていた。
「千年……」
その声には、これまでのどんな言葉よりも、深い感慨が込められていた。
「千年、待ち続けた答えに、ようやく」
彼の傍らに立つ魔族たちもまた、それぞれに涙を流し、あるいは、静かに空を見上げていた。長年、苦しみを分かち合ってきた同胞たちの体からも、その傷が、確かに癒えていくのが見て取れた。
◇ ◇ ◇
フェリクスが、震える手で、最後の記録を書き留めながら、静かに呟いた。
「――これで、千年続いた誤解の歴史に、終止符が打たれるのですね」
その言葉に、その場にいた誰もが、深く頷いた。だが、同時に、誰もが理解していた。真の意味での和解と再建は、これから、ゆっくりと積み重ねていかなければならない、長い道のりであることを。
◇ ◇ ◇
夜が明け始め、崩れかけた魔王城の窓から、久しぶりの、澄んだ朝日が差し込んできた。
その光の中、アズマリアは、ヴィルヘルムに支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。
世界は、確かに救われた。だが、この物語は、まだ、終わってはいない。
救われた世界で、これから何を選び取っていくのか――アズマリア自身の、本当の意味での結末が、まだ、その先に待っていた。




